2026.07.16
人間の業の深さを歌舞伎に見る
京都
ライター
DECO KATO
加藤 デコ氏
映像なのに、その迫力に会場全体が息をのむ
先月、京都・南座で『片岡仁左衛門 坂東玉三郎-お話とシネマのひととき-』を観た。
前半の対談が50分、後半は1982(昭和57)年3月に歌舞伎座で撮影された『色彩間苅豆 かさね』だった。

『色彩間苅豆 かさね』は、世慣れた男・与右衛門と少女・かさねの恋物語。
与右衛門は、実は少女の母の密通相手で父殺しの犯人である。
かさねは与右衛門の子を宿しているが、親の仇であることを知り、
与右衛門は、実は少女の母の密通相手で父殺しの犯人である。
かさねは与右衛門の子を宿しているが、親の仇であることを知り、
与右衛門に不信感を持つ。
与右衛門はもとより小娘など本気で愛してはいない。
真実が明らかになり、与右衛門に殺されるかさね、
しかし怨霊となったかさねは逃げようとする与右衛門を離さず、引き戻そうとする。
……かなりグロテスクな最後である。
もちろん、かさねが玉三郎さん、与右衛門が仁左衛門さんだ。
もちろん、かさねが玉三郎さん、与右衛門が仁左衛門さんだ。
美しい少女だった玉三郎さんが顔に傷を負うあたりから、会場が水を打ったように静かになる。
鎌をふりかざす仁左衛門さん、
怨霊になる玉三郎さん、最後は背中がすーっと冷たい。
30代の2人の動きのキレやエネルギーも凄まじい。
本当の芝居ではなく、映像であっても圧倒される。
終了後にはしばらく席を立てず、ぼーっとしてしまった。
役を重ねて老成していくのでは
古今東西、“お話”の本質は変わらない、
「人の業」だと私は思っている。
『色彩間苅豆 かさね』は、全く救われないまま終わっていくのがいい。
悪人は悪人のまま。どうしようもないやつのまま。
親の仇を恨み続ける気持ちもずっと消えずにそのまま。
人間の汚れや迷いが舞台にあふれていて、
そこに説得力がある。
簡単に改心されたら、予定調和っぽくておもしろくない。
30代で、どうして人間の業に迫る芝居ができたのだろう。
玉三郎さんも仁左衛門さんも「役に生きる」とよく話される。
舞台に立ったら「その役になるんです」と。
そうすると、稽古も含めて、彼らは何度もその役を生きることになる。
本番を迎える時には、その役を繰り返し稽古し、演じることで、
生身の30代ではなく、与えられた役をその倍、数倍、生きている。
つまり、役を繰り返し生きることで、実年齢以上の人生経験を積んでいるともいえる。
これは、私の勝手な空想なのだが、
役を重ねて老成することで、
より深く、凄みをもって演じることができるのではないか。
歌舞伎の森へGO!
もう一つ、感じるのは、
「あー、私は新たな“お話の森”の扉を開けてしまったんですね」ということ。
なんせ、全く触れたことのないジャンルだったため、すべてが新鮮。
どの演目もおもしろい。
これから、たくさんの歌舞伎を観ることができる!と楽しみにしている。
で、「歌舞伎の森に入っていく加藤さん」のイラストをチャッピーに描いてもらった。
年齢詐称だが、ご勘弁を。

プロフィール

ライター
加藤 デコ氏
旅と植物と読書の好きなライター。
最近、坂東玉三郎さん、片岡仁左衛門さんの魅力にハマっている。






