ちっちゃいともだち

Vol.021
CMプロデューサー
Hikaru Sakuragi
櫻木 光

このコラムもあと3回です。

突然ですが、このコーナーのこのコラムはあと3回で終了することになりました。
番長プロデューサーの世直しコラムとして200回。子連れ番長のCMプロデューサーコラムとして今回で21回目。毎月書いてきました。17年くらいですかね。

だから、今まで書こうとして書けなかったことを思い切って書いてみようと思います。コラムにおいての全体の振り返りは最終回にとっておきます。

僕の生まれ故郷の佐賀県佐賀市には、地域がほぼ全面田んぼだった名残として街中に農業用水として人工的に作られた川が流れています。クリークといいます。
実家の東側と北側にもそのクリークが流れています。

バスケを始める前の小学校低学年の頃は、その川や田んぼが遊び場でした。
ただ、あまり外に出るのが好きじゃなかったのとすごい肥満児だったのとで、近所のみんなと駆け回って遊ぶのではなく、天気のいい日は屋根に布団を干して、その上で寝っ転がってひたすら本を読んでいる方が好き、という暗い少年でした。

その上、プライドが高いというか、屁理屈をこねて面倒くさく、あまり他人が好きではなかったので友達もあまりいませんでした。

ある天気のいい日に、家の前の公園の戦国武将の生誕地という大きい記念碑の上で、日光で温まった大理石に背中につけて、あったけえって思いながら本を読んでいたら、5歳くらいのちっちゃい男の子が「何してんの?」と近づいてきました。

内心めんどくせえなあ、と思いながら、その子の人懐っこさと可愛さに負けて、
「本を読んでるんだよ。」「なんの本?」「聖徳太子。」「何それ?」
みたいな会話をしました。
その後その子は、寝っ転がって本を読んでいる僕の横に木の枝みたいな棒を持ってきて座り、蟻をいじったり砂で絵を描いたりしていましたが、僕が帰るまでずっと黙って横に座っていました。

それから何度かそう言うことがあって、少し仲良くなっていました。
その子は僕の実家から300メートルくらい離れた家の子で、お父さんお母さんが家で何かの商売をしているんだけど、忙しくて全然構ってくれないらしく、まだちっちゃいから、ほかのガキどもと駆け回って田んぼのタガメを捕まえたりもできず、寂しがっていたところに動きの少ないデブの兄ちゃんが本を読んでるだけなのが心地良かったんだと思います。

僕がまた屋根の上で布団を敷いて本を読んでいると、目の前の畦道に近い道をその子がよちよちやってくるのが見えました。
僕を探していて、屋根の上にいるのを見つけると喜んで、そっち行きたい!って言うので迎えに降りて2人で屋根の上の布団に寝っ転がって本を読んでやったりしました。
ちゃんと字も読めないような歳の子でした。
それからちょくちょくうちに遊びにくるようになりました。
僕も10歳くらいか。可愛い友達という感じで、悪い気分ではなかったのです。ヨシノブくんっていったかな。ちゃんと名前も思い出せませんが。

佐賀の当時の子供にしては清潔で、同学年の子達はまだ青っぱなを垂れたり虫歯だらけだったりするやつばっかりだったのにそうじゃない。
一緒にいても僕の読書も邪魔しないように気を使ってじっとしてるようないい子でした。
ただ、親が忙しくてかまってもらえないのがひたすら寂しかったような印象でした。
5歳だもんね。

その年の大晦日、
家で両親が年末の大掃除をしていて、邪魔だからどっか行け、と親に家を追い出されて、寒いのにその近くの公園にいたら、その子がトボトボやってきました。
僕を見つけると、きゃーって駆け寄ってきて、「大掃除で追い出された。」と言ったので、ゲラゲラ笑って「おれも。」
二人で、やりたくもないのにブランコに乗ったりシーソーに乗ったりして時間を潰しました。
そして、その子の家の前の川で、流れてくる葉っぱに小さい石を投げたり、ただ足をぶらぶらしたりして遊んでいました。そんなことだけでも楽しそうでした。

その夜は大晦日なので、普段はどこにも連れて行ってくれたりしない父親が佐賀の有名な温泉地の旅館に泊まるんだと張り切っていて、暗くなってきたから帰ろうかな、と何度か立ち上がるんだけど、その子が寂しそうにするから帰れずにいました。

そこに二つ歳上の僕の実の兄が迎えにきて、
「何やってるんだ、お前。もう行くぞ。」と頭ごなしに怒鳴りました。
それでその子も観念して、「帰ってよかよ。」とか細い声で言いました。
「ちょっと待ってくれ兄貴。この子をこのまま置いて帰れんけん、この子の親に挨拶してくるよ。」
「そんなことせんでよか。早くしろ、帰るぞ。」
そんなやりとりがあって、
「よし、俺、もう行くからお前、家に入れ。寒くなったしな。」
「わかった、またね。」「またね。」と言って、その子が家の前の小さい橋を渡って家に入って行くのを確認してから自分の家に帰りました。

その後、嬉野という佐賀県の温泉地に家族で移動して、大きい旅館に泊まります。
なんだか黄色い照明の高級感のある場所で、そんな所に行ったこともなかったので、大はしゃぎしていました。当時の温泉地は活気もあって、随分いいところに来たような気がしました。

父親と兄とで大きなお風呂に浸かり、泳いだり、ぼーっとするまで楽しんで、部屋に戻ったらテーブルいっぱいに料理が並んでいました。
レコード大賞のテレビを観ながら、父親はビールで顔が真っ赤で満足気です。
当時はレコード大賞の番組は大晦日に紅白の始まる直前までやっていました。
ピンクレディーのUFOがレコード大賞を獲り、大喜びしていたのを覚えています。
「この人たち、これから紅白の会場に移動するんだよ。」「大変だねえ。遠いのかねえ?」「一緒の会場でやればいいのにね。」とか言って子供らしくはしゃいでいます。

「じゃあ紅白見なきゃ。NHKに変えようよ。」とテレビのチャンネルを変えたら、紅白の前に佐賀のローカルニュースが始まりました。
ニュースはいいから早く紅白始まんないかな、みたいな気分でニュースを見ていると、
「佐賀からお伝えします。今日夕方、佐賀市で子供が川に転落して死亡すると言う事故が起きました。」
とアナウンサーが言いました。

え?

「今日夕方6時ごろ、佐賀市水が江で子供が川に転落し、病院に運ばれましたが死亡しました。5歳でした。川は自宅の前のクリークで深さは90センチくらいと見られます。子供が家の前で遊んでいて誤って転落したものと・・・。」という感じ。
さっきまで遊んでいた景色が、パトカーや救急車などの赤色灯で真っ赤になっている映像がテレビ一面に映った。

やっぱりあの子だ。
「え?え?お父さん、お父さん、これ、お母さん、ここ。」
僕は取り乱して泣き出してしまいました。
「よしのぶちゃんのことだよ。さっきまで一緒に遊んでたんだよ。兄ちゃん見たよね。一緒にいたんだ!」
父親を見たらものすごい形相で、
「お前のせいじゃなか!可哀想やけどお前が泣かんでよか!」
と怒鳴りました。
母親は慌てて、素早くチャンネルを別の番組に切り替えていました。
父親からすると年末年始に奮発してせっかく家族旅行に来たのに、突発的な事故で楽しくなくなるのが許せなかったんでしょう。

僕はびっくりして泣きも笑いもできなくなって、とにかく何をどうしたらいいかわからなくなりました。息が荒くなり視界が狭まるのがわかりました。
「お父さん、僕ね、あの子、家にちゃんと帰らせとけばよかった。お兄ちゃんが急かすけん。」
兄貴が、「家に入って行ったの見ただろ。その後のことは知るか。」、と。
父親が、「もうその話は絶対すんな、すんなよ。せからしか。事故やけん。仕方なか。おー、ピンクレディーはもう紅白の会場に来たぞ。」

なんでそんなに他人事なんだよ!そう言いたかったけど言葉も持っていませんでした。
子供だったので、本当に何をどうしたらいいかわからないし、ただ懐いてくれていた小さい友達の、しかもさっきまで一緒に遊んでいた生々しさと、ものすごくあっけない他人の「死」を受け入れる心を持ち合わせていませんでした。
多分、知っている人が死んだという初めての経験だったと思います。
ごめんな、ごめんな、と思っていました。

その後、その子の家の前の道は怖すぎて、徒歩や自転車では通れなくなってしまいました。
車に乗って通る時は目をつぶって通りました。
高校を卒業して佐賀を出て行くまで、そしてたまに帰省した時もその道だけは通れませんでした。

そして、その出来事のせいで子供が怖くなり、僕は子供が嫌いになりました。
ずっと全ての子供から距離を取っていました。弱くて儚いから怖くなったんでしょう。
誰かに子供ができて見せられても、「かわいいー。」とか言って喜ぶ心がありませんでした。
そういうことを無神経に喜べる鈍感なやつの頭をどつきたくなるくらい嫌でした。

当然、自分の子供が欲しいとも思えませんでした。
あんな気持ちになる可能性があるなら関わりたくない。勘弁して欲しいと思ったんでしょう。

50歳になった年、弱ってしまった親の面倒をみるために、ちょくちょく佐賀に帰ることにしました。帰ったら時間もあるし景色もリアルなのでいろんなことを思い出します。
自転車を買って近所をうろうろしてみたりしました。

年末にも帰省してすごく寒い日、家の前の橋の上でクリークを見ながらタバコを吸っていたら、全く忘れていたこの事件を急に思い出して、思い切って現場に行ってみることにしました。
スーパーで花を買い、40年ぶりにその家の前に立ち、川を覗き込んで、こんな浅い川でかわいそうに。寒かっただろうな、とか思って泣きました。ごめんな、よしのぶくん。またねって言ってからずいぶんこなくて、ごめんな、と。
気づいたらその日も大晦日でした。呼ばれたんだと思いました。

51歳になった次の年の年末、自分の子供ができていることがわかりました。
わからんけどあの子に許してもらえたのかもしれないな、と思いました。

産まれた子も今や5歳。こんなわけのわかっていない生物を放置しちゃいかんよなあ、とか、親たちはみんな必死で働いてたよな、とか、今になって思います。昔は俺もほっとかれたよな。
子供は儚いから大切に扱わないとなあ。あんころより世の中危険だし、と思います。

気づけば僕も子連れ番長。ここのタイトルを眺めてしんみりしてるわけです。

プロフィール
CMプロデューサー
櫻木 光
自分の関わった仕事の案件で、矢面に立つのは当たり前と、体と気持ちを突っ張って仕事をしていたら、ついたあだ名は「番長」。 52歳で初めて子どもを授かったのでいまや「子連れ番長」。子連れは、今までとは質の違う、考えた事も無かった様な出来事が連発するような日々になったけれど、守りに入らず、世の中の不条理に対する怒りを忘れず、諦めず、悪者だけど卑怯者にはならない様に生きていたいと思っております。

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