なぜ人は「リアリティのある怪談」に惹かれるのか――蔵のある家のはなし
「蔵」は怖いところだ。
昔からそういう心象があるのは、たぶん母から聴く幼少期の想い出が原因だろう。
上の世代の記憶の中の蔵は、だいたいが閉じ込められるために存在する。
門限を破った時、おままごとのついでに水仙の頭をすべてちょん切った時、当時は粉だったビオフェルミン(整腸剤)を残らず舐めてしまった時。
お友達も一緒に問答無用で蔵に入れられ、泣き喚く声に大人の方がうんざりするまで出してもらえない。
現代では通報されてしまいそうだが、その頃は特に珍しい光景ではなかったのだそうだ。
なぜそこまで恐ろしいのかといえば、蔵にはろくに灯りがない。
戸を閉められた時点で目が見えないほど真っ暗になり、もぞもぞと蠢いているのが友人なのか鼠なのか虫なのか、はたまた別の何かなのかも分からなくなる。
そう考えると、小さな子どもを脅かすには充分すぎる罰だったと思われる。
実際、実家の蔵から本当に怨念のこもった呪物が見つかるという騒動もあったらしく、長年開かれていない場所には何かが眠っている気がしてならない。
こうした流れで思い出すのが、私が10代の頃にネットで話題になった『コトリバコ』という話である。
2ちゃんねるで流行した「洒落怖(しゃれこわ)」の一種であり、当初は現実にあり得てもおかしくない出来事として見守っていた人も多かったと思う。
あれも納屋で発見した木製の箱を、仲間内に見せたことから始まったんだったなあ…と。
『ひとりかくれんぼ』などもそうだが、2000年代後半は自分たちが巻き込まれるような内容のホラーが盛り上がっていたように感じる。
「もしかしたら、うちの古い蔵にも何かがあるかもしれない」
「もしかしたら、自分の家でも何かが起こるかもしれない」
「もしかしたら、私の住んでいる地域にも何か曰くがあるかもしれない」
恐怖しながらも、どこか半分期待を込めた気持ちで身近な怪談を探す。
信じているからこそなのか、信じられないからあえて試すのか、色々な価値観はあるだろうが、いずれにせよ心理的に理解できなくはない。
かつての『こっくりさん』も、似たような形で広まっていったのではないだろうか。
近年も、また再びモキュメンタリー形式のホラー作品が注目されている。
蔵のある家、村社会、土地に残る独特の風習……多くの現代人にとっては既に馴染みがなく、けれども今もどこかで受け継がれているイメージがあるからこそ、リアリティに優れた題材として映えるのかもしれない。
私も節度を以て、「他人事とは限らない」怪異にハラハラさせていただきたいと思う。







