仏事のおたのしみ
不謹慎と怒られるかもしれないが、お葬式や法事がだいすきだ。
お坊さんの鍛錬された声とリズムで刻まれるお経を聴くのがすきで、あまり大声では言えないのだが、ちょっとしたライブ感覚で参列している瞬間がある。
しかしそれよりも、わたしがすきなのは「おふかし」である。
法事とか、お葬式とか、そういった仏事に参列すると立派なお弁当を配ってもらえるが、そのときに必ず登場する白いおふかし。
もち米のなかにフカフカでホクホクの白インゲン豆が入っていて、仕上げに白いゴマがパラパラふりかけられている。
白インゲン豆が入っているからといって、豆独特の香りが立っているわけでもない。
味わいは素朴以外の何物でもないのだが、ほんのり塩がやわらかく効いていて、もちもちとした食感と、フカフカでホクホクした白インゲン豆の合わせ技がたまらないのだ。
おふかしラブなわたしは、あえて仏事で配られたお弁当のおかずとは食べずに、おふかしだけ残して、あとで自分のすきなおかずと合わせて食べるのが定番。
すぐに食べられないときは冷凍保存してまで後日のおたのしみにとっておく。
もちろん、おふかし単体で食べるのもすきなのだけれど、野菜炒めやレバニラ炒め、豆苗炒め、ピーマンの肉詰めなどをおかずに食べるのもいい。
油でさっと炒めた茄子を入れたお味噌汁や豚汁といただくのもいい。
最近はスープにハマっているので、次におふかしをゲットできたら参鶏湯やボルシチ、辛くないカレースープと一緒に食べてみたい。
「それだけすきなら普段から食べればいいじゃん」というご意見もありそうだけど、おふかしを自分で作るのはけっこう手間がかかって面倒くさいのだ。
しかもスーパーやお惣菜屋さんに当然に並んでいるのも見たことがないから、お葬式や法事でしかお目にかかれない。
そういうレアな食べ物、という貴重さもわたしを惹きつけているのかもしれない。
そんな大好物のおふかし。
実は先日、法事に参列したおかげで食べられた。
めったに食べられないおふかしを味わっていると、そもそもなぜ仏事におふかしが振る舞われるのかが気になってきたのですこし調べてみたら、なんと、福島県と宮城県の習わしだという説があった。
この世に生まれてから早33年。
おふかしは全国共通の習わしだとおもっていたから、かなりの衝撃ものである。
こんなにも東北に生まれてよかったと感じられたことはない。
この宮城県に生まれなければ、おふかしを食べられなかったおそれもあるのだから。
わたしの言う「おふかし」は ”白ぶかし” とか ”白ふかし” とも呼ばれているらしく、地域ごとに名前や入れる豆などに違いがあるとのこと。
白である理由としてはわたしの調べた限り二つほどあって、一つは故人が清らかな状態で浄土へ旅立てるように願う意味があること(大昔の喪服は白が常識だったらしい)、もう一つは生命の誕生を意味する赤と正反対の色が白だということが挙げられる。
また、もち米を蒸して作るので「おこわ」という名前でもあるのだが、それにちなんで、もともとは霊柩車もなかった時代に重労働な埋葬をお手伝いするひとに「力をつけてもらう」という意味を込めて「お強(=おこわ)」が振る舞われた名残でいまも配られているという説もあった。
とにかくおふかしは、故人を偲ぶために誕生した食べ物で、すくなくともいまを生きているわたしの単なる大好物として食べられることを目的とはしていなさそうだ。
なかなか食べられない大好物。次はいつおふかしを食べられるんだろう。
でもこれを言葉にするのは不謹慎な気がして、「お葬式とか法事に参列するとお経を聴けたり、おふかし食べられるのがすきなんだ」とは伝えられても、おふかしを心待ちにしていることは誰彼かまわず考えなしに言えない。
おふかしを持ち帰って食べるのも供養じゃないか!とも、おもう。
しかし「おふかし食べたいから誰かのお葬式に参列したい」とは、やっぱり口に出しづらい。
だって、おふかしを食べている間はただただ味わうことに集中していて、故人のことなんてこれっぽっちも考えていない。
そういうときのわたしの脳内は、100%おふかし。
「おふかしおいしい、あぁ悲しい、ありがとう、おふかしおいしい、さみしい、ありがとう、おふかしおいしい……」なら、まだいいのかもしれない。
ところが実際は「おふかしおいしい、おふかしおいしい、おふかしおいしい、おふかしおいしい、おふかしおいしい……」である。
おふかしを食べ終わって「ごちそうさま」のときに「ありがとう」を念じればいいのかな。
でもやっぱり、なんとなく、普段から「早くおふかし食べたい」「ねぇ、おふかし食べられるところ知らない?」とは言いづらいんだよな。
供養とおふかしの両立って、むずかしい。







