常識

Vol.016
CMプロデューサー
Hikaru Sakuragi
櫻木 光

最近、疑うべきことは「自分の常識」だと思うことがありました。

今の自分を取り巻く環境が、自分が大人になるまでとあまりにも違いすぎて、自分で常識だと思っていたことが常識じゃなくなっていることがある。
そう感じ始めているのです、最近。

そもそも、常識という観念はどういうことなのかちゃんと考えたことがあるだろうか?
ちょうどいいからAIに聞いてみるか、と思ってやってみた。

GoogleのAIによると
「『常識』とは、社会人として当たり前とされる知識や判断力のことです。
挨拶をする、列に並ぶといった社会生活を円滑にするための共通認識ですが、その内容は時代や文化、所属する集団によって異なり、常に変化する可能性があります。」
と、ちゃんと簡潔に問題点まで指摘した文章が出てきた。

大きな問題は最後の一文。
「その内容は時代や文化、所属する集団によって異なり、常に変化する可能性がある」という部分です。
つまり、自分の中の常識も生きてきた中で積み上げていくものではなく、状況や時代により改訂していかないといけない、ということです。
だから、ずっと同じことを常識だと思い込んで、考えるのをやめて、常識だと言い張っちゃいけない、ということなんですね。

アインシュタインは、
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」
と言ったそうです。
そう言われてみると思い当たる節がたくさんあります。

佐賀から東京に出てきた時にボコボコに打ちのめされたのは、田舎の常識と都会の常識は全く違う、ということでした。特に人間関係。田舎での人付き合いの常識は都会では通用しません。
逆に、東京での人付き合いの常識は田舎では通用しない。都会と田舎では常識自体が違う。
他人との距離感の取り方なんだろうか?言葉にすることが難しいです。

インターネットが日本で一般的に普及したのは1995年とされています。その時僕は27歳でした。その年になるまでインターネットが存在しなかったのです。
自分の中の常識は、新しい常識としてインターネットにずいぶん書き換えられました。
当然携帯電話もなかったし、スマホなんかドラえもんのネタみたいな装置だった。

そのほかにも、バブルが弾けたり、大きい地震が何度かあったり、コロナのパンデミックの様な未体験の出来事もありました。
アメリカに転勤した時もそう。
歳食ってから子供が産まれた時も自分の常識はひっくり返った。
自分の中で変化させなければ生きていけない様な出来事と共に、自分の常識が書き換えられてきたのは事実です。18までに覚えたことなんか何も役に立たなくなる程世の中は変わっちゃったのかもしれない。
それはそれで自分の中の常識の範疇なのだけれど、常識は一つではない。

AIが言う様に、時代や文化、所属する集団によって変わるということは、自分で納得するしないに関わらず、常識と言われるものを無意識でも意識的にでも使い分けて生きているんだ、ということになります。

「自分の中の常識」
は総合的な常識変化に対応しながら、「そういう時代じゃないのよねー」とかぼやきながらもアップデイトして生きていく。
俺はこう思っていた方がいいだろう、という想像上の社会と自分との共通認識。

「社会の常識」
自分と直接関係のないことや知らないこと、公にはなっていないが裏で密かに進行していること、国際関係や政治も含む隠されていることなどの中にも暗黙の了解が社会の常識、みたいなことがたくさんある。
なんでそうなっているのかわからないけど、それが当たり前の様に自分の前をすり抜けていったり、あまり気にならないことだけど、重大なこととして後から出てきたり。米が高い、とか。

「業界の常識」
自分が働いている仕事の組織の外側で、同じ業種や似た方向性の関係業種の中にある常識。
僕で言うと広告業界や映画業界、放送業界の常識。この手の業界の常識は非常識、と言われたりします。
働かされすぎておかしくなっちゃった人の話とか、パワハラやセクハラの問題や、テレビ局とタレントが起こしたトラブルなんかをみていると、かなり変だったのがバレちゃいました。相当な変革が起きていることがわかります。

まだまだ種類はあるんでしょうが、こういった内容の違う常識の中で納得できないことも含めて自分の立ち回り方を決めて生きているのがわかります。
大事なことは、これら違う常識たちが自分の中でごちゃ混ぜになって区別がつかなくならない様にしないといけないということです。

昭和からこの社会を牛耳っていた重鎮たちがどんどんいなくなり始めていますが、その人たちに「常識」だと押さえつけられていたジョウシキノタガが外れ始めていて、そのタガの周りに溜まっていた膿みたいなものが流れ出し、綺麗になった新しい社会の常識が生まれる、ということも起こり始めている。

「常識」は常に変化する。

そういうことも考えるのがめんどくさくて、自分がこれまで覚えたことを「常識」だとして変化に気づくのも考えるのもやめて、立場をもって周りに自分の常識を押し付けて「そんなことも知らねえのか?」と不機嫌な顔をしているおっさんが「老害」と言われるんだと思うのです。

先日、ある仕事で相当な分量の映像を編集しなければならない事案があった。
納期も迫っている。CGはうまくできてこない。合成する箇所が多い。当然連日徹夜になる。
編集マンの人員を増やしてパートを分けて、4台のコンピュータでそれぞれのパートを編集しながらやっていたが、途中のチェックなどが入り、変更も多発して作業が滞る。
監督も制作部も、広告代理店の人も立ち会っている僕も、みんな徹夜。
最近では珍しい光景ではあった。なんか懐かしいですね、昔こうでしたよね、とか言って年齢が上の人たちと笑っていた。

すると明け方、一人の編集マンが音を立てて突っ伏しながら「もう帰らせてください!」と叫んだ。
内心、なんだとこら、と思った。
俺だってこの後このまま娘の保育園の運動会に行くんだぞ。何が帰らせてください、だ。そんなこと言ってねえでとっとと終わらせろ、と思いました。
この状況でみんな同じ条件で、てめえだけ泣きいれて済むと思ってるのか?仕事だぞ。常識がねえやつだ、と。昔ならそれを口に出して言ってたと思います。
怒鳴りつけてやらせる様な世の中では無くなったからなあ、困ったなあ、と、どんな態度に出ようかと考えていたら、イヤ、俺の常識の方がおかしいな、と思ったのです。
働き方改革が取り沙汰されて、いろんな問題がこれまでの常識がおかしいということになりました。
特に広告業界の常識はおかしいんだと。
そこにコロナが来て、リモート作業が発達して、こうやって編集室に集まってるのも不思議な時代になったのかもしれない。納期に対するプレッシャーとうまくいかない作業に、頭に来て忘れていたが、よくよく考えると俺も帰りたい。
それを言うか言わないかなのだが、帰りたいと言ってはいけないという常識は、若い編集マン達にはもうないのだ。

すまん、よし、今日はやめよう。ただやんなきゃいけないことがまだ盛り沢山だから、人員を増やすか、寝る時間をもっと考慮したシフトを増やして対応しよう。確かにこの作業は効率が悪すぎる。
本当にみんな申し訳ない、という対応になりました。

自分の常識を疑う。
いや、言い方が陳腐すぎるな。何でもかんでも疑ってたら自分が崩壊する。
あえて言うと、スルーしていい常識と、受け止めるべき常識、立場の違う人の常識、を見比べて、どれが大事か状況によって選択しながら、自分の判断を決める、ということか?

さっきの話にしても、編集マンの疲労の問題と、納期を守るという常識は逆向きの常識である。
逆向きの常識の衝突が問題だとしたら、その解決のためにいろんな知識をフル稼働させないとバランスを取るのが難しい。

常識を疑うのではなく、それぞれ違う常識を理解して見比べて、いい方策を考える。

つまり自分の常識だけでいきていけるような社会ではないんだよそもそも、ということかもしれない。

プロフィール
CMプロデューサー
櫻木 光
自分の関わった仕事の案件で、矢面に立つのは当たり前と、体と気持ちを突っ張って仕事をしていたら、ついたあだ名は「番長」。 52歳で初めて子どもを授かったのでいまや「子連れ番長」。子連れは、今までとは質の違う、考えた事も無かった様な出来事が連発するような日々になったけれど、守りに入らず、世の中の不条理に対する怒りを忘れず、諦めず、悪者だけど卑怯者にはならない様に生きていたいと思っております。

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