イマジナリーライン
最近は映像制作も多様化してきて、映画、テレビ、CM 以外の畑からどんどん新しい人たちが出てくるようになりました。
「動画」というのが簡単に撮影、編集できるようになりました。
今となっては信じられないけど、僕がこの仕事を始めた頃は、高精細の動画はフィルムで撮影するしかありませんでした。
フィルムは1缶400フィート。
秒24コマで撮影して4分くらいしか撮影できません。
この1巻が4万円くらいの値段でした。
30秒のCMを撮影するのにも毎回10巻くらいは必要でしたし、これを現像所で現像してもらい現像したフィルムをテレシネという作業で色の調整をしてビデオにトランスファーする。
これも1時間7万円くらいのテレシネルームとカラリストに頼まなければいけない。
カット数にもよるけど5時間くらいかかっていました。
その後、仮編集(仮編)をする編集室に入って徹夜したり、仮編がokになったら当時1時間10万円くらいの本編集室に何十時間も入って合成したり、タイトルを入れたり。
そして、セリフ、音楽、効果音、ナレーションなどをミックスするMAルームに入り、1時間5万円で数時間完成を目指しました。
つまり、動画の制作には撮影にもお金がかかるけど、仕上げにもお金がかかり、しかも、ごく限られたプロの現場にしかそれを扱える資金も技術もなかったのです。
今は携帯で撮影してパソコンで、もしくは携帯でも編集できる時代です。
色調整すら簡単にできる。
タイトルも音楽も、権利関係を無視すれば、好きなように演出できる。
誰でもみんな動画を扱える時代になりました。
作品を発表する場所もある。
あっという間にそれまでの映像制作者のアドバンテージがなくなりました。
僕らも、戦場はテレビでオンエアされるCMだけではなくなって、インターネット上で見られるものを作る仕事も増えました。
そういう若いスタッフも続々登場して、僕らが苦労してやっていたような技術がいとも簡単にパソコンを駆使した若者たちのセンスに置き換えられ、そういうスタッフを積極的に登用して一緒に作業をすることも増えてきました。
そんなWebが主戦場の若い演出家と仕事をしている時、撮影している出演者の会話の切り返しのカットで違和感を覚えたので撮影を止めました。
「ちょっと待って、監督、これなんか変じゃね?」
「何がですか?」
「これ、イマジナリーラインを超えてるよね?」
「なんすかそれ?」
という会話になった。
イマジナリーラインとは、撮影上のセオリーの一つ。
「向かい合って会話する演者の二人を結ぶ線の片方の側から撮影しているとしたら、カメラのアングルはその二人を繋ぐ線の反対側に回って撮影してはいけない」
というセオリー。
二人を繋ぐ線がイマジナリーライン。
180度ルールとも言われる。
サッカーの中継を例に平たくいうと、
メインのカメラは常に一方向から撮らないと、急に逆からのアングルが入ってきてチームの攻撃の方向や位置関係がわからなくなって、見てる側が混乱しちゃうでしょ?という話。
若い演出家はその言葉自体を知らなかった。
自分でも久しぶりに使った言葉だったから仕方ないかもしれない。
上のような説明をしたら演出家は、
「それって昔の映像制作のセオリーでしょ?」
「僕にはそういうのいらないので」
みたいな事を言い出した。
「ま、これだけで判断はできないからさ。最終的に編集して、位置関係が混乱しなければいいよ。今撮ったそのカットが使えればいいけどね」
テレビで歌舞伎役者が言っていた事を思い出した。
歌舞伎には型がある。
歌舞伎における所作の常識。
基本の動作とも言える。
時に型破りと言われる斬新な事をする歌舞伎役者が出てくるが、その役者はちゃんと型を習得しているものだ。
型を持っているから破ることができる。
型はちゃんと学んでから破る。
これが「型破り」。
俺は型破りな事をしてえから基本なんか学んだりしねえんだよ、というやつを「形無し」といいます。
これはどの世界でも言えることですね。
最初に書いたように、映像を作るということにとてつもない手間のかかる時代がありました。
とにかく動画を撮影するのにはお金と時間がかかる。
やっても上手くいかないとわかってることや、撮っても使えないカットは撮らない、というのがフィルム時代の空気感でした。
だから実験的な映像を目指してテストする以外にセオリーを無視するわけにはいきませんでしたし、スタッフみんながそれをわかっていました。
監督がイマジナリーラインを超えたがると、カメラマンが注意してました。
つながんねえよ。
「長い時間をかけて、いろんな人が挑戦して得た教訓」がセオリーですが、「面白がってやってもやっぱり上手くいかないからやめたほうがいいよ」というのもセオリーです。
それが型です。
映像制作の世界にも、まだまだいろんなセオリーがあります。
そういうのがなさそうに見えても、マシンが変わっても、100年以上やってることには型がある。それを知ろうとしないでプロとして映像を作ろうとする奴は図々しい。
アクセス数が多かろうと少なかろうと、無知が作ると「形無し」で変なのだ。
イマジナリーラインを超えて編集に違和感を与えたい場合でも、その違和感を中和するセオリーとして「マスターショット」という撮り方もある。
「ポインティングマッチ」や「30度ルール」など、特にハリウッドで教科書に書かれたようなことが既にたくさんあります。
そういう事を勉強しないまま、勉強させないまま、若い演出家と若いカメラマンが
「なんか違うんだけどまあいいか」って感じで撮影されている現場や作品が多くなってきたような気がします。
当然若いプロデューサーの経験不足や勉強不足もある。
プロデューサーでもなんでも、年長者はフィルム時代に叩き込まれたセオリーを、機材が変わっても若い人たちに伝えていかないと、頓珍漢な映像や、「なんだこの編集?」みたいなものをたくさん見かけるようになってしまいます。
つまり、ちゃんと作法を教えないから無作法なやつがはびこる世界になってしまう、という事です。
携帯で撮れるからセオリーなんぞに気を使わないで撮る、というのはとてもいいことで、そこから生まれてくる新しい常識や型もあると思うんです。
縦型動画などはもうスタンダード化してきているし、動画はテレビで見る物ではなくスマホで見る物だ、という常識の大変革も起こっています。
機材の進化、ソフトの開発、AIの使い方などでやらなくていいことも驚くほど増えた。
これからは、マイクに向かって口で言うだけで、意図した映像が「はいどうぞ」と出てくるようなことになるかもしれない。
そのプログラムには、ここまで培われた映像制作のセオリーがふんだんに取り入れられるだろうし、それを知らないと、上手く指示を出すのに困るでしょうし。
ちなみに、撮影中に違和感を覚えたカットは、最終的には使われていなかった。
「ほらっ」と監督に言ったら、罰が悪そうに「やっぱ繋がんないす」と言ってました。
腹が立ったけど怒りませんでした。
そんなもんだからです。







