「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争の話を聞こう」団塊ジュニアの場合
終戦以来
夏は祈りの季節
夏は祈りの季節である。
日本伝統の年中行事として、仏式に祖霊を弔う「お盆」が伝承されていたことに加え、昭和20年春から夏に加え苛烈を極める米軍の空襲、8月の2度に渡る原爆投下、ソ連参戦、そうして旧盆のさなかの8月15日の玉音放送へと至る流れが決定的すぎた。
戦後の日本人は祈る。不戦の願いを込めての、祈りの夏。
令和8年は
戦後81年
だが戦後81年
戦争体験の風化が叫ばれて久しい。
戦争を知らない子どもたち、と朗らかに歌われた団塊の世代も70代後半。
幼くして戦争を体験した疎開児童も90代。
玉音放送を聞いた記憶を有している者は90代半ば以降。
従軍、戦闘体験を記憶している方々は令和8年夏の現状、どれだけいるのだろうか。
令和も8年目を迎えた今年。
小学校高学年の課題に
「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争の話を聞きましょう」
は、あるのだろうか。
令和の子どもの祖父母世代といえば現在70代くらいとして…
彼らが若い時分に体験した戦争と言えばせいぜい受験戦争、あるいは大学紛争にベトナム反戦運動になるだろうか。
だが昭和後期は違った。
今や50代に至る団塊ジュニアが小学校高学年の時分。
敗戦国日本が高度経済成長を遂げ、いずれバブルへと至る総仕上げの時期。
まだ「戦後40年」ぐらいの時期。
30代で敗戦を迎えた世代がまだ70代だった時代。55歳の定年を迎えていたとはいえ、充分に現役だった。
それぞれの戦場体験を、空襲体験をはっきりと胸中に有してしていたことだろう。
昭和後期における「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争の話を聞きましょう」は確固たる意味があった。
昭和60年に採録された
昭和20年に終わった戦争の話
手元に古びた小冊子がある。
昭和60年(1985年)夏。つくば万博の年。
わたくしが6年生として在籍していた北海道札幌市郊外の小学校において、6年生の児童全員に出された課題
「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争の話を聞きましょう」をまとめたものだ。
児童が実際に祖父母や父母に戦争体験を聞き取り、原稿用紙にまとめて担任教師に提出する。だがパソコンワードは夢にも思わず、ワープロすら登場したての昭和後期だ。教師が小学生でも読みやすい文体に清書した文章は、恐らくは謄写版かコピー機のはしりによる印刷だろう。
ここで全体写真を挙げられないのは、表紙の題字の下にある絵が問題だからである。
歴史ファン団塊ジュニアの「入門編」であった、小学館発行「学習まんが 少年少女日本の歴史」の19巻「戦争の道」(現在は改訂の上、『アジアと太平洋の戦い』と題名変更)から、東京大空襲の場面がそのままコピーして載せられているからである。
ともあれ、昭和60年、1985年当時、北海道札幌市近郊に居住していた小学校6年生(昭和48年度、1973年度生まれ)の児童たちが祖父母や「両親」から聞き取った、「40年前に終わった戦争」の一部を紹介してみたい。
※児童一人が聞き取った話ごとに、「大人が読みやすい文体」に改めて載せます。鉤カッコ内の文章は「原文ママ」です。また特別な用語などはカッコで解説を加えた上で、紹介させていただきます。
・祖父は昭和14年に24歳だった。内地(日本本土、本州以南)にいたが、教育召集で旭川市郊外の当麻(現在の当麻町)に集合。旭川から広島へ、広島から中国の「うーすん」(現在の上海市、呉淞区)へ。上海、漢江、武昌を経て「小松へいたん」(小松兵站。兵站とは、軍事物資の集積所)へ。そこで「ぎしょう作戦」(※宜昌作戦。昭和15年、1940年5月から6月まで湖北省で行われた日本軍の作戦。日本軍の第11軍が、中国軍第5戦区軍を撃破し、湖北省宜昌市を占領した)に参加。「ぎしょう作戦とは、敵の大将・蒋介石を倒すための作戦です」(※原文ママ)。そこで「アンク」と渡ったが(※この「アンク」の漢字表記、あるいは人名か地名か否かは不明)、期間命令が出たので昭和15年、旭川へ帰国。
昭和20年3月。広島に「あかつきせんぱく隊」(暁船舶隊)として再び出征。旭川から東京へ。前日が東京大空襲で、煙突しか残っていなかった。ひどく悔しかった。さらに大阪、神戸、3月14日には広島へ。ついた翌日、空襲があった。(※広島市は原爆投下まで、まったく無傷だったわけではなかった。実際には昭和20年3月18日に初空襲があった)。広島から北海道東部の根室へ、根室でも空襲に遭った。8月に同地で終戦。復員して家に帰れたのは同年10月。
国の考えが違うので仕方がないが、やはり戦争は起こしてはならない。
・昭和20年当時、祖父は38歳、祖母は29歳。樺太在住。
8月13日、ソ連が「戦争をしないという約束」(※日ソ不可侵条約)を破って侵攻。ロシア人の姿は日本兵よりひどく、靴を履いていない、履いていてもボロボロ。祖父は名好郡西柵丹三井鉱山で働かされた。捕虜だったが食糧事情はよく、徒歩30分の距離にある海では手拭い1本使うだけで背負いきれないほどのシシャモが獲れた。ほかにも真鱈、カジカ、タラバガニ、毛蟹も食べることができた。家のそばには川があり、そこでは「キューリのにおいがする魚」(キュウリウオ)がとれた。鉄工所で3年間働かされた末に日本へ帰れることにあったが、その前に祖母が母親を産み、ひと月留まった。その時には兵隊が助産婦の代わりをした。お風呂に入れなかったのでシラミが湧き、船に乗る前にDDTという白い粉薬を体中にこすりつけた。
・父のいとこがガダルカナルに出征した。だが日本軍は苦戦で撤退、やがて実家には「メイヨノセンシヲトゲラレタ」の電報が届いたが、遺骨は帰らない。そこで残されていた髪の毛と爪を白木の箱に納めて葬式をした。だが戦後になって、本人はひょっこり帰ってきた。米軍の捕虜収容施設にいたという。いとこの生還は新聞でも報じられた。
・母方の祖父が23歳で入隊した。訓練でミスをすれば、連帯責任として全員が革靴で殴られた。最初の出征は昭和13年の満州。地面が不潔なのにはいつくばって戦ったために病気になり、3年後に除隊した。2度目の出征は昭和17年のアッツ島(※アリューシャン列島の島。翌年の1943年、日本守備隊が玉砕)。そこでも病気になって帰還することになったが、潜水艦に乗り込もうとしたところで爆撃された。岩肌に隠れたが避けきれず、多くの仲間がうんうんとうなり声をあげて死んでいった。
父方の祖父は「満州鉄道の学校」で働いていた。赤紙が来たが、鉄道の仕事が忙しいので断りの手紙を出した。でも再度赤紙が来たら、入隊しなければいけない。やがて敗戦。ロシアの兵隊が若い女性を略奪しようとするので、女性は丸坊主にしたりした。夫婦で荷物を背負い2人の子を連れ、昼は隠れ、夜歩いて5㎞の道のりを2日かけてやっとの思いで「コウロ島」(※葫蘆島。中国東北部の遼寧省にある港町。日本への引き揚げ船の出航地)についた。だが帰国船に乗る直前でもロシア人に検査され、毛皮に着物、子どもの下着を取られた。だが「大島つむぎ」(※大島紬。鹿児島県奄美大島産の、高級絹織物)は、値打ちがわからなかったのか取られなかった。船には乗ったが船中で赤痢が発生し、上陸できない。食糧不足の船中で食料の奪い合いが発生した。35日目に、ようやく佐世保港に上陸できた
・祖父の話。昭和13年5月24日、「北支那のじょしゅうの戦争」(※日中戦争の徐州作戦?)に行った。敵がラッパを吹いて、機関銃を打ってきた。墓地に身を隠して「小じゅう」(小銃)で応戦したが、同じ中隊の仲間14人が戦死した。
・当時北海道小樽市にいた祖父の話。小樽の街は北千島や中部千島に兵器や食糧を送る船の基地となっていた。昭和20年7月の14日と15日に米軍のミニッツ艦隊がグラマンという飛行機で北海道を攻撃した。軍需工場のあった室蘭は艦砲射撃を受けた。小樽市民は攻撃に備えてゴミを焚いて煙幕を作った。空中戦では米軍機2機が撃墜された。それでも市民に20人の死者を出した。
・祖母の台湾での体験。品物が不足し、金があっても手に入らない。品物は配給切符でようやく手に入った。学校でも授業はほとんど無く、「ひま」という植物を育てて種から取った油(ひまし油)を飛行機の燃料にした。台湾では空襲はなかったが、いきなりB29が来て爆弾をまき散らしていった。祖母は橋の下にかくれて助かったが、周りを見てみると死んだ人の肉が電線にぶら下がって、まるで地獄だった。
・祖父が「冲なわ戦争」(※太平洋戦争の沖縄戦)に行った。食糧はすぐに尽き、着ている革製の戦闘服まで茹でて食べた。祖父の聯隊は最後に戦友との2人のみになり、沖縄は焼け野原状態。向こうから米兵が迫る絶体絶命の中、小さなヤシの木に隠れてなんとかやり過ごした。だが悩んだ末、自分から投降して捕虜になった。今でも祖父の背中には、弾の痕がある。
これら紹介した話以外にも、東京で空襲に遭った、食事は芋とカボチャばかりで戦争前は食べられたバナナが手に入らない、青森で艦砲射撃、満州からの引き揚げ船の食事は高粱の海苔の佃煮のみで、それまでの栄養失調も相まって何人もが上陸前に死んでいった、などの話は尽きない。
さて私の身内の話だが、父方の祖父は昭和20年当時32歳、北海道東部の街に在住。21歳で徴兵検査を受けたが前年に足を病んでいたため、即時入隊とはならなかった。やがて畜産の技術員であった祖父は「軍馬の調達」係として戦争に関わることになる。その関係で農家から雑穀や芋などを分けてもらえたので、食糧にはそれほど困らなかったという。
だが…いきなり電話してきた小学生の孫から「宿題で、戦争の話を聞き取っている」と言われ。胸中にはいかなる感情がきざしたものか。子ども用に、相当にマイルドに言い換えたものではなかったか。戦争に関して祖父に具体的に尋ねたのは、実のところこれが最初で最後だった。母方の祖父は、母が語るところによれば「戦争で満州に行った」ということだが、学校の宿題の折には尋ねてはいなかった。以降も尋ねることはなく、大学時代に見送った。
この小冊子に載っている逸話は、6年生全児童のものではない。わたくしが在籍したクラスの児童数は35人ほどだったが、小冊子に載っているわたくしのクラスの報告は、合計で児童8人分のみである。語れなかった、あるいは語りを聞いても子どもの方で書けなかった、あるいは学校の先生の方で載せられなかった語りもあるのだろう。
PTSD―心的外傷後ストレス障害などという概念が無かった昭和後期。平和教育の名のもとに、40年以上前の辛い記憶を掘り出すのも、なかなかに酷な話である。
平和な不況の平成令和
繁栄を記憶する団塊ジュニアは我慢した
団塊ジュニアの幼少期には、本当の戦争体験者が健在だった。学校の課題でその記憶を発掘して語り継いだ。そんな折の世間は、バブル直前の繁栄の極みだった。
それゆえ…
以下の文書はあくまでも「私見」だが
バブル崩壊後の平成不況時に世間に放り出された団塊ジュニア、阻害され搾取されても、心には昭和後期の楽しい幼少の記憶があった。
祖父が戦場で敵兵の銃弾をかわし、祖母が焼夷弾や機銃掃射に怯えた若き日、そんな当時の彼らと同年代にあたる若き日の団塊ジュニアはバブル期の学生生活を謳歌し、飲み屋でふざけ合い、金満ニッポンを信じて海外観光に繰り出した。
だからこそ、平成不況下の世間に放り出されて小突き回されても、現状を受け入れてしまった。反論できなかった。自分で自分を納得させてしまった。
「じいちゃん、ばあちゃんは死ぬ思いしたんだ。でも僕らは平和な今の日本に生きているんだ。だから我慢しなければ!」
と…
いずれ氷河期時代は令和の時代、更に後世、小学生たちの課題に応えて「受験戦争や就職の辛い記憶」を語ることになるのだろうか。







