「〇〇が嫌い」という話はしない

Vol.166
CMプロデューサー
番長プロデューサーの世直しコラム
櫻木 光

もう、ずいぶん前になるんですが、友達のラジオDJに呼ばれて昼間のFMの番組に、なぜか、ゲストとして出演したことがあります。

あまりインターネットがポピュラーになっていなかった頃です。

 

事前に簡単な打ち合わせが一回だけあって、番組の趣旨と、かける音楽の順番とかの説明があり、

あらかじめ伝えておいた、僕がかけたい音楽の確認があったり。

内容は、基本的にはDJの質問に答える形でのフリートークでした。

生放送だったので、本番直前になるとなんとなく心配になり、ラジオのディレクターに聞いてみました。

「ラジオってやっちゃいけないことはなんですか?」

そしたら

「櫻木さん、CM作ってらっしゃるというからやっちゃいけないことはお分かりでしょ?

 ただ、一般的に言うと、これだけは絶対にしないでください。

 『〇〇が嫌い』という内容の話です。そう言う話は苦情の電話が多くなります」

ということでした。

 

なるほどなー。いろんな人が聞いているだろうしね。そんな話は気分悪いよな、

なんて納得していたら急に怖くなりました。え?なんで怖いんだろう?

 

自分の中にある「〇〇が嫌い」と言う話を引っこ抜いた時に、俺、なんか話せるだろうか?

と思ったからです。

 

当時自分は、ある意味売りにしていたニュアンスが「毒舌」で、

番組に呼ばれた理由が「面白いことを言うから」だったので、

なんか際どいことを言わないといけないんじゃないかと思っていました。

嫌いなことを攻撃することで溜飲を下げるのが面白い、ということも含め。

そのときは若いし、理屈に則って冷静になにかを物申す的な技術もなかったんだと思います。

 

それになにより、普段からいろんな事柄に好き嫌いが多く、あれ嫌いこれ嫌いという考え方は普通でした。

それを表に出すことを我慢することができずにいたのです。

俺は正直だ、思ったことを言うぜ。それの何が悪い?と。つまり、それは子ども。

 

実際の放送は、DJがうまくリードしてくれて、仕事の楽しみ方や好きな音楽の話に終始してあっという間に終わりました。

1時間ある番組の半分は音楽をかけてるし、交通情報やニュースの時間もあるしで、

出番は実際のところ10分もなかったんじゃないかと思います。

なんかの文句を垂れ流す暇など、まるでありませんでした。いい人っぽく終わった。

 

ただ、面白かったのかどうなのかは全くわからなかったし、

番組が終わってからディレクターに聞いても「こんなもんなんじゃないすか?」としか答えてくれなかった。

失礼な奴だなあと思ったけどその時はどうでもよくて、大きな問題にはならなかったみたい。

とにかく緊張したし貴重な体験ではありました。

 

ただ、そのディレクターが番組の始まる前に言った

「これだけは絶対に言わないでください。『〇〇が嫌い』という内容の話です。そう言う話だけはしないでください」

「誰も、誰かが何かを嫌いって話を聞きたいとは思っていないんですよ」

という言葉が妙に心に残った。

 

省みるとそれまで自分では「〇〇が嫌い」と言う話を日頃よくしていたからだ。

 

今は「分断」ということが問題になっている。

分断はこの「嫌い」から来ている。どこかの国の大統領がいい例だ。

 

頼んでないのにあなたは〇〇系だの〇〇派だの日本人だの〇〇層だのと勝手にラベリングされて

(広告のマーケティングなんかまさにそうだけど)

おお、そうか、俺はこれか、となぜか納得して、違う階層を羨んだり、バカにしたり。

気づくと自分とは違う何かを嫌悪して、それを口に出したり、ネットに書き込んだり。

そしていがみ合う。マーケティングやSNSのダークな点はそこにある。

書きたい意見を自由に書けるのはいいことの反面、言っていいことと悪いことがある。

それに気づいていない人が意外に多いのだ。

 

そもそも城南中に進学したからといって城北中ともめる理由はないはずだ。

たまたま親が選んで住んでいた地区でなんの選択肢も恨みもないのによその中学と喧嘩するようになる。

なんかの部族か?と思った。それに近い。

日本人に生まれたのも、男に生まれたのも、たまたまなのです。

ヘイトスピーチをしてる人はなんでそんなことしたいのだろう?気持ちいいのかなあ?やる前より嫌な気分にならないか?

 

分断そのものが悪というわけでもない。

みんな一緒でニコニコして競争もなければ天国に来ちゃったんじゃないか?と思うだろう。お花畑でスキップしてばかりじゃ暮らせない。

頼んでないのに貼られたラベルで納得してないで、そのラベルは努力して格上げしていってこその面白さ、なんじゃないかとも思う。

 

明らかにおかしい事にはおかしいという意見は表明したほうがいい。

そこにはおかしいと思うことの根拠を示さなければならないし、嘘のニュースに惑わされてもいけない。

だけど、そのおかしいことを好きか嫌いかの話にしてはいけない。

 

俗にいう「性格のいい人」は他人の悪口を言わない人だ。これは明らかだ。

加えていうと、性格のいい人は、あれが嫌いこれが嫌いとは言わない。

嫌いなことなんて山ほどあるんだろうけど口に出さない。

自分の好きなこと、興味のあることについての発見を楽しそうに話す。

他人がそのことを嫌っていたり興味がない場合はすぐやめて他のことを話すか聞き手に回る。

問題が話題だとしたら、その問題の解決について前向きな解決策をいくつも口にする。

 

社会的に性格のいい人だと思われたかったらそれを徹底すればいい。

それができるということは、性格のいい人は敏感で頭がいいのだ。

 

僕は性格も頭も悪いのでそれがやろうとしてもできないのだけど、

今は、心の中に沸いた嫌悪感をそのまま吐き出したりはしないようにしている。

一回のみこんでよく考えることだ。

酔っ払ってSNSで悪態ついて、次の日の朝みんなに非難されて非道いことになる時がある。

そうなりたくないのだ。

 

 

BLMもLGBTも人種も民族も宗教も貧富の格差も、問題は、なんだか自分と違うものへの無知と嫌悪で始まっている。

生活は、どこの国の人でも自転車操業。

新型コロナみたいなウィルス一つでその姿を露呈するのがわかった。だからいっぱい文句もあるのだろう。文句だらけだ。

ただ、自分と違うからって嫌う必要はない。足立区の区議おっさんは田舎の世間知らずの犬みたいだ。

 

自分がうまくいかないことを誰かのせいにする奴は頭が悪い。

うまくいかない自分は突き詰めれば、たいていのことは原因は自分にある。

他人や世の中のせいにすんな。と言いたい。

自分が悪いとなかなか思えないことの方が多いけど、

誰かのせいにした方が楽だけどやっぱり他人や世の中のせいなどにはしてはいけないと思う。

それに発して他人を嫌ったり、妬んだり、恨んだり、攻撃したり。

目先のことでカッときてそれをやるとある関係性を失う。取り返しはつかない。

 

仕方ないのかもしれないけどそれが最小限のルールだということを誰も言わない。

そんなことを言っていると簡単に心が壊れちゃう人が増えたからだ。

死なれるより、人のせいにしてもらった方がいいのかもしれない。

 

こんな世の中になって、いろんな不満は心の中で生まれて仕方ないと思うけど、よく考えないで他人にいうな。ネットに書くな。と思う。

そういう不満は口に出した瞬間に毒に変わる薬品みたいなものだからだ。

言った人の気が晴れたとしてもそれに触れた人の気分は悪くなるし元気を奪う。

そもそも〇〇が嫌いって話を書き込んでも気が晴れたことがあるだろうか?

そうしたことの積み重ねや連鎖やシェアや拡散から大きな悪いうねりが生まれることもある。

昔の陰口はその場で消滅するから問題になりにくかっただけだ。

 

 

ラジオのディレクターが言った

「『〇〇が嫌い』という内容の話。そう言う話だけはしないでください」

には、ラジオでやっちゃダメってだけでなく普遍的な意味がこもっていました。

 

優しさを示せ。ということかも。優しさとは他人にも自分にも敬意を払う事だ。

敬意を払え。尊重し分け合える関係を保てと言う事だったんです。

 

「分断」はイデオロギーとイデオロギーの対立だと思うかもしれないけど、違う。

世界や国家がこうあればいいのにというなんらかのビジョンを持つ人たちと、

「今だけ金だけ自分だけ」な考え方しかできない人たちの、お前のビジョン「嫌い」との対立。

つまり「’イデオロギー’と’イデオロギーの欠如’の対立」が分断なんですね。

 

「〇〇が嫌い」ということを意識してみんなで普通の会話の中で言わないようにする。

嫌いなことはあえて考えないようにする。嫌いなことをどうにでもいいことにするもっといいアイディアを考える。

とにかく「嫌い、嫌い」って言わないをみんながやればずいぶん平和な社会になるんじゃないかと思うことがあるのです。

 

無理かなあ?無理だろうな。僕のこのコラムは綺麗事で、人間の本質は違うところにある。

その人間の本質が嫌いなんですけどね。

 

プロフィール
CMプロデューサー
櫻木 光
プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。

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