打ち合わせの時に発言しない人は
この話は、ずいぶん昔から部下の人たちにネチネチ愚痴愚痴言ってきたことで、最近はネチネチ愚痴愚痴いうとパワハラだのなんだのうるさいのであまり言わない様にしていますが、たまに我慢ならない時があります。
ケースとしてはこういうケースです。
ある企業の社長にCMの企画をプレゼンしに行きました。
社長の納得が得られずやり直しになって、会社に戻り、さてどうするか?の打ち合わせをしています。
会議室にいるのは、クリエイティブディレクター(おっさん)1名、演出家(おっさん)1名、プロデューサー僕(おっさん)1名、CMプランナー(おばさん)1名、若いプロデューサー男、若いプロダクションマネージャー(男女各1名ずつ)という構成。
内容は、あるショップのコマーシャル。
ECサイトではなく、店舗に若いお客さんを呼びたい。
つまり若者世代を集客するためのキャンペーンの企画。
さて、通らなかった企画の何が悪いのか?
社長の発言とその会社の現状、今後どうなりたいかの希望を聞いてきた範囲で話し合います。
クリエイティブディレクターが一通り方針を決めて、具体的な表現をどうするのか?という話になって、あれはどうだ?これはどうだ?と意見を出し合います。
ふと気づくと、クリエイティブディレクター(おっさん)1名、演出家(おっさん)1名。
プロデューサー僕(おっさん)1名、CMプランナー(おばさん)1名のおっさんかおばさんしか発言していないことに気づきます。
そこで、若い人にもどんどん意見を言ってもらう様に促します。
「面白くなくてもいいんだよ。
どうしたら15秒で社長の思いを伝えられるか?世の中に的確に伝わるか?
しかも若い人たちに客として来て欲しいってことは若い世代の集客のためなんだから、若い人の意見のほうが正しいと思うんだよね。おっさんばっかりなんか言ってても仕方ないんだから。」と。
それでも、ほとんどの若い人は唸るだけで意見を言おうとしません。
自分から言い出すのが恥ずかしいのかなあ?と思って指名してみます。
「じゃあ君から言ってみよう。はい。」
それでも、待ってましたって感じで面白そうに話す人はなかなかいません。
なんか喋らなきゃいけないと思って、具体的な表現の話ではなくて概要の話を確認する様にボソボソと話しだすことが多いです。なんだ、ガワの話かよ。
「で、どうしたい?」
「わかりません。」
全ての若い人がそうだとは限りませんが、何かの責任のある人しか発言しない傾向が強くなってきました。
ここでコラムを書いていて、毎月、何をテーマにコラムを書くか?ということにも苦しんでいます。
刮目相待というテーマを掲げているので、今、若い奴らが伸び伸びと仕事ができて、達成感があり、面白く、嘘ばかりの世界の中で、世間のせいにはせず自分はどうするのか?どう在りたいか?を書くということにしています。
それは概要。ガワです。
さて、具体的には何をきっかけにどう書くか?の所で苦しむわけです。
このコラムにもありがたいことに編集者という人がついていて、その人たちに、ネタがあったら欲しい、書いて欲しい具体的な話はありますか?というオーダーを常に出しています。
毎月、みなさん考えてくれてきたのは確かでいろんなアイディアを出してくれたのですが、でも歴代の編集者で「それですよ!」という提案ができた人は残念ながらいません。
200回以上書いていて一回もない。まあ、僕が満足いかないだけなんですが。
それはそれで義務ではないので問題はありません。
孤独は感じますが、自分のために自分で考えて書く事で思考がかなり鍛えられていること。
またそれが仕事にもフィードバックできている事も感じます。
しかし、なんでこういうことになるのか?
ずいぶん不思議に思っていた時代もありました。
自分では若い頃、やらなくてもいいのにコピーを書いたり、企画を考えたり頓珍漢なことも含めて、会議が停滞するのを楽しみに待っていました。
あえて「なんかアイディアない?」と言われるまで発言せず、ワクワクしながら考えをまとめて待っていたんです。
俺はバカだけど若いから、若者向けに発信する情報ならその受け取り手でもある。
俺が面白いと思えなかったら、そのおっさんのアイディアが理にかなっていても、社長さんが納得しても、茶の間で見る人が喜ぶわけがない。そう思っていました。
そして、自分のアイディアを「こういうのどうですか?」と切り出す瞬間の緊張感は、快楽すら覚えるものです。
ドキドキする。
お前黙ってろ!とか、あー面白くない、とか、よくあるよね、とか、馬鹿にされたりもしましたが、たまに採用されたり、キッカケになったりした時は嬉しかったんです。
若い人が、表現の内容について発言ができないのは、自分が考えていることがもしみんなに否定された場合に、恥ずかしい思いをする、という恐怖から発言できずにいるんだろう?と思っていました。
自分なんかが意見して、もしそれが的外れだったらバカがバレちゃうじゃん、的な。
最近はそれが全然違うんだということがわかって来ました。
なんと驚くことに、表現を作り出さなければいけない人や、何かしらの責任者以外の、マネージャータイプの職業の人間は、そういう事を考えること自体にやる気がない、やりたくない、ということがわかってきました。
考えようともしていない。考えようとしてもすぐやめる。
大多数の人間に、物事を深く考えるという癖、正解のない事を形にする癖がついてないんです。
若いプロデューサーに、なんで面白がって意見を言わないの?と聞いた時に、
「思いつかないんですよ。まじで。」と言いました。
「まじか?」
面白い事を考える。面白そうに提案する。採用される。形になる。
それが楽しくてやってんじゃねえのかよ?と問いただしてしまいました。
「いや、わかるんですが思いつかないんですよ。無理です。面白い事を言え、といわれるのはメチャクチャ苦痛です」
表現の提案というのは、誰にどこで何をさせてどう言わせるか?を具体的に決める事です。
それをクライアントのオーダーやクリエイティブ陣の希望などをしっかり聞いて、だったらこういうふうにしたら面白くないですか?と他人が言わない様な事を提案してみる、という事です。
いろんな表現の制約やルールがあり、予算や秒数の制限もある中で、人の目を惹き、膝を打たせる魅力的なアイディアを出すということは至難の業です。
正解はないからです。
パッと考えつく様なことはほとんど使い物になりません。考えついたアイディアを裏から下から視点を変えて考える。
そのことについて深く何度も考える癖をつけていないと、答えのない中、理にかなっていて、それでいて面白いアイディアは浮かばないんです。
自分でパッと考えつく程度のアイディアはAIに聞いた方がもっと精度の高い一般論として出てきます。
それをひっくり返して、煮て焼いて、遠くから見て、顕微鏡で見て、切れ込みを入れたり、色々する中で変化していくアイディアを、最初に出た一般論に近づける、というひねくれた行為が必要なんです。
今のCMは面白くなければならない、ということでもありません。
昔の様に芸術作品を作っていられる様な環境でもないです。
メディアが多様化してテレビでオンエアされるCMの役割も変わって来ました。
でも、なるほどそう来たか、とか、うまいこと考えるねえ、という感覚が残っていないと見向きもされません。
このことは生活の中でも同じで、偉い人、面白い人、魅力的な人はいろんな事をよく知っているし、いいタイミングで面白い事を言うし、決断も早い。
いろんな事をよく、深く考えないと生きていけない立場の人が多いです。
面白いから偉くなるんじゃなくて、正解のない面白い事を考え続けたから偉くなっちゃった。
そういう感じだと思うのです。
打ち合わせ中にパソコン開いて、なんかやってるフリして他のメールに返信したり、やり過ごしたりしていないで、その時間の中くらいは、その時の問題を解決すべく、お前も真剣に考えたらどうだ?と思うのです。
「僕のやる事じゃないですから」と思っていたとしても、僕の言った事で何かが動く事もある。
完璧な企画なんか求められているわけではないんだし、僕の言った何かの中のたった一つの言葉が難解な企画の殻を割って、他の人のいいアイディアがドロドロと流れ出す時もある。
自分の趣味の中でも何かが好きで、その好きな何かは面白いアイディアで成り立っているんだろうし、それに感じたり涙したりする事もあるだろうから、そういうことから発想して仕事のアイディアを出すこともあっていいじゃないか?
無理やり結びつけてもいいじゃないか。
打ち合わせ中に一言も発言しないでいられるやつの気持ちが僕にはわからないのです。
したくなかったらしなくていいけど、するやつの方がいい思いをするよね、と思うだけです。
いいアイディアを早く出せたら早く帰れるよ。僕は、打ち合わせはさっさと終わらせて早く帰りたい。
自分の生活がどうなれば良くなるか?とか、楽しくなるか?とか、なり行きに任せずやって行くために、いろんな状況や情報をもとに真剣に深く物事を考える癖をつけて生きていたら、気づく事も多く、そこから発する自分の雰囲気は「面白い人」にもなれると思うんですけどね。
しらんけど。







