『山の上ホテル』その後

東京
コピーライター
TOKYOそういえば日記 79
コジマカツヒコ

秋葉原から電車で西へひとつ。「御茶ノ水」という駅があります。

楽器が好きな人、とりわけギターマニアにとっては聖地とも言える楽器屋街です。

 

駅前から南へと延びるメインストリートはやがて古本の街・神田神保町とぶつかりますが

ちょうどその中間あたり、明治大学の手前に「山の上ホテル」と書かれた看板が立っています。

『山の上ホテル(HILLTOP HOTEL)』。山口瞳が“作家のためのホテル”と称し、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎をはじめ多くの作家が

定宿として過ごした文学好きにとって永遠の憧れであるホテルです。

近年の小説では『私にふさわしいホテル(柚木麻子著)』の舞台であり、物語の冒頭は〈ホテルのエントランスに続くゆるやかな坂道に、八月の木漏れ日が差し込み優雅な模様を作っている。〉から始まります。

坂の名前は「吉郎坂(きちろうざか)」。見上げた先にホテルがあります。アールデコ様式でつくられた昭和の名建築としても有名。

 

もともとはホテルとして設計されたものではないそうです。東京都美術館を寄付したことで知られる九州の石炭商・佐藤慶太郎氏により

1937年(昭和12年)「佐藤新興生活館」として開館され、生活困窮者の生活改善、西洋の生活様式やマナーを啓蒙する施設として使われていたそうです。

その後、太平洋戦争中は大日本帝国海軍に徴用。さらに日本の敗戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され陸軍婦人部隊の

宿舎として使われていたとの記録があります。

ホテルとして営業をはじめたのは1954年(昭和29年)でした。

 

全館休業のニュースが流れたのは2023年10月。理由は竣工から86年を迎える建物の老朽化とのこと。

ニュースの口調はどれも悲しいトーンを帯びていてテレビを見ながら「ついに終わるんだ」と思ったものです。

そして2024年の2月12日に惜しまれながら営業を終了。

 

その後しばらくは何の音沙汰もなく、網をかけられた『山の上ホテル』の看板は撤去の日を待つだけに見えました。

 

吉報は全館休業のニュースが流れてから1年と1ヶ月後の2024年11月15日。

『明治大学が山の上ホテルの歴史的建築物を継承』

 

詳細はリンク先のプレスリリースを読んでいただくとして、明治大学が山の上ホテルを取得し2031年の明治大学創立150周年記念事業に向けて建物を改修、ホテルとしても再オープンさせるとのこと。(山の上ホテルの生みの親である佐藤慶太郎氏が明治大学の卒業生だった事からつながりがある)

 

続く2025年4月に開かれた明治大学リバティアカデミー主催の無料公開講座「『山の上ホテル』が育んだ文化―文学と文化の交差点」のレポートを読むと「できるだけそのまま再開させたい」等の意見で盛り上がったそうです。

 

実は私、数少ない自慢話のひとつとして22歳の時に山の上ホテルに泊まったことがあります。書きもしない原稿用紙と万年筆を持ち込んで「作家の缶詰めごっこ」。

ルームサービスで確かオムレツを頼んだ記憶があります(すごく美味しかった)。

 

「たいへんですね、がんばってください」と小さく声をかけてくれたスタッフの温かい笑みをかすかに覚えています(偽作家でスミマセンでした)。

 

6年後、あのままの雰囲気で再開されたならぜひまた泊まってみたいものです。

 

 

 

文中引用:『私にふさわしいホテル』(柚木麻子著/扶桑社  文庫版は新潮社)

プロフィール
コピーライター
コジマカツヒコ
ホテルといえば、プリンス&ザ・レボリューション初来日公演の帰りに寄った「ザ・ホテルヨコハマ(2022年に解体)」も素晴らしかった。ホテルのバーでビールの小瓶とピーナツ食べて帰っただけだけど。もちろん懐具合の関係で。

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP