活け造りの黒ソイが教えてくれたこと

宮城
ライター
KIROKU vol.23
佐藤 綾香

高校生の一時期、板前になりたいと、ひっそり夢見ていた。

そんなある日。家でテレビを見ながら「板前になろっかな〜」と母親につぶやいてみたら、「あんた朝早く起きれるの? 朝の3時とか4時に市場に行けるの?」と問われ、睡眠が大好きなわたしはいとも簡単に板前を目指すのをやめた。

 

板前になりたかった理由は、ただ魚介類を食べるのがすきだったから。

寿司職人も考えたのだけれど、山の幸もすきだったので、いろいろな日本食材を扱えそうな板前になりたいとおもっていた。

おいしい海の幸を自分がもっとおいしく美しくつくりたい、食べたい、そしてなにより、当時から板前の所作や出立ちがとてもかっこいいと憧れていたのだった。

 

いまでも板前への憧れはあって、板前の方の手元が見えるようなお店に入ると、どうしても見入ってしまう。

とりわけ見入ってしまうのは手際良く魚をさばいているとき。

自分でも魚をさばけるようになりたくて、少し前までは魚のさばき方を教えてくれる料理教室に通いたいとおもっていた。

ところが先日、わたしの「魚をさばけるようになりたい」という気持ちのボルテージが少し落ちてしまった一件があった。

それは、久しぶりに会った友人たちと居酒屋に入ったときのこと。

 

その居酒屋では、刺身の盛り合わせを注文する場合、おすすめの鮮魚から1種類選ぶことになっていて、わたしたちは全員が「食べたことない!」と口を揃えた黒ソイという淡白な白身魚を選んだ。

一通り注文を済ませたあと、わたしはお手洗いに向かった。

その間に起きた話を友人から聞いたら、店員は生きた黒ソイを水槽からすくいあげ、そのまま透明なバケツに入れてわたしたちのテーブルまで持ってきたのだが、「いまからこの黒ソイをさばきます」と宣言していったらしい。

 

お手洗いから戻ってきたわたしは、その話を聞いて「あぁ、あの魚だったのか」と振り返った。

実はお手洗いに向かう途中、透明なバケツの中でビチビチと跳ねる黒ソイらしき魚とすれ違っていたのだ。

友人たちと話をしながらも、頭の隅では「そうだよな、いまから命をいただくんだよな」と一人で黒ソイに想いを寄せていたのだが、いよいよ刺身の盛り合わせが運ばれてくると、活け造りにされた黒ソイはまだピクピクと動いていた。

 

活け造りにされた黒ソイが、ピクピクと動いている。

魚の鮮度が良い証拠でもあるのだが、正直に言うとその様子を見ているのが、わたしはとても苦しかった。

 

思えば、小魚やイカなどの踊り食いを見るのも、あまりすきじゃない。

生きたまま食べられてしまう小魚やイカなどの気持ちになって「痛い、痛い、痛い」となぜか勝手に代弁してしまう自分がいる。

最高の鮮度でおいしく命をいただく、というのは理解しているのだが、わたしはそこまでして鮮度を求めてはいないなとおもってしまう。

常に意識するようにはしているのだが、同時に、生き物の命を自分の生きるエネルギーにさせてもらうこととうまく向き合えていない気がするのだ。

 

食べるのはすきなのに、生きものの命を自分の手で奪うことが怖くてできないわたし。

平気で生きものの命を奪うようになった自分を想像するのも恐ろしいと感じるのだが、命と向き合うことは他人任せにしすぎないほうがいい。

 

いまのわたしには、生きた魚を締めるのは難しい。

もっと生きてみたらいつか生きものの命としっかり向き合える日がくるのかもしれないが、いまできることといえば、いただく命を無駄にしないことと感謝すること。

魚をさばけるようになる前に、まずは納得いくまで生きものの命とじっくり向き合おう、とおもう。

 

さっきまで生きていた黒ソイが活け造りにされた、刺身の盛り合わせ。

その日わたしたちは、付け合わせのツマやワカメまでぜんぶ平らげた。

 

 

プロフィール
ライター
佐藤 綾香
1992年生まれ、宮城県出身。ライター。夜型人間。いちばん好きな食べ物はピザです。

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP