映画『兄を持ち運べるサイズに』レビュー 厄介な兄が最後に渡してくれたもの
私事だが、3月に父が亡くなった。ぬかりなく喪主を務めたつもりだったのだが、火葬が終わり「持ち運べるサイズ」になったところで、父を包む風呂敷を忘れたことに気がついた。あちゃー。仕方なく、さまざまな荷物を運んできたショッピングバッグ(めっちゃ緑の、スーパーの粗品…)の底にそろりと忍ばせた。バッグを持ち換えたりどこかに置いたりするたびに、かちゃかちゃと音がする。その都度、冷や冷やしたし、「父、すまぬー」と詫びた。
冠婚葬祭には、なぜかこの手の失敗(と小さい笑い)がつきものだと思うのは、私だけではないだろう。
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「お葬式」の変化を観る
映画『兄を持ち運べるサイズに』を観て思い出したのは、伊丹十三監督の『お葬式』(1984年)である。深刻・厳粛であるべき葬儀の場を描きつつ、そこで起こるおかしな出来事にフフフッと笑ってしまう作品だ。伊丹監督は、妻・宮本信子さんの親族のお葬式体験談から着想を得たとのこと。代々の親族が集まり、仏式の段取りに沿って粛々と進む「1980年代のふつうのお葬式」を記録した作品と言ってよい。
一方、11月28日に公開を迎える『兄を持ち運べるサイズに』が描くのは、2025年の葬儀の姿だ。死者を見送るのは3人だけ。遺影はタブレット端末だ。葬儀も火葬も驚くほど簡素である。『お葬式』には描かれなかった、警察での手続き、汚部屋の処理、残された子どもへの責任といった問題が次々とやってくる。『お葬式』との差異、時代の変化こそが本作のおもしろさの一つだと思う。
厄介な兄との和解

物語の大きなテーマとして感じたのは、死んだ兄との和解。主人公・理子にとって、兄は厄介な存在だった。いじめられたり、嘘をつかれたり、お金をたかられたり、散々な目に遭ってきた。突然、「お兄さんが亡くなりました。親族はあなただけです」と呼び出されても、迷惑・困惑といった言葉が真っ先に頭に浮かぶ。それでも「兄を持ち運べるサイズ」にするために動かざるを得ない。
理子は、葬儀や手続き、部屋の片づけなどを事務的にこなしながら、内面では亡き兄との対話と和解を進めていく。
和解の描写で印象的なのは、オダギリジョーの怪演だ。画面に出てくるだけでおもしろく、ともすれば深刻になりそうなところで、笑いを持ってきてくれる。理子と一緒に「なんだかごまかされてる?」と思いつつ、「まあ、いいかぁ」と思わせる妙な説得力。一方、理子がPCに淡々と打ち込む「記録」も、感情と距離をとりながら兄との関係を見つめ直す手段となっている。「記録」「言葉」が周囲の人々の心を少しずつほどいていく様子も印象的だ。
和解から見える未来

何よりも心に残ったのは、「良一くん」の存在である。兄と同居していた良一くんは、この映画で唯一、最初から父(理子の兄)の死を悲しんでいる人物だ。彼と理子たちは最初はぎこちないが、良一くんが投げかける一つの問いをきっかけに家族として打ち解けていく。良一くんは死んだ兄の“分身”であり、兄の生命がそこに延びていることを感じさせる存在でもある。良一くんと理子たちが理解し合う過程は、兄との和解とも重なっていく。
映画を観終えたとき、何かを一つ乗り越えたような、やり切った感が胸に残った(私がやったのではないのに…)。死と向き合うことは重いテーマではある。だが、その中にも新たな発見があり、ちょっとした失敗や笑いがある。人は、そこから何かしらの希望をつかんで前へ進もうとする。誰かを見送ることで、自分や周囲が生きていく力を少し分けてもらうこともできる。そんなことを思わせてくれる作品だった。ぜひ映画館で観てほしい。
『兄を持ち運べるサイズに』

◎原作:「兄の終い」村井理子(CEメディアハウス刊)
◎脚本・監督:中野量太
◎キャスト:柴咲コウ オダギリジョー 満島ひかり 青山姫乃 味元耀大
◎制作プロダクション:ブリッジヘッド/パイプライン
◎公開表記: 11月28日(金)公開
◎製作幹事:カルチュア・エンタテインメント
◎配給:カルチュア・パブリッシャーズ
◎映画公式サイト:https://www.culture-pub.jp/ani-movie/
◎映画X: https://x.com/ani_movie1128
◎映画Instagram:https://www.instagram.com/ani_movie1128
©2025 「兄を持ち運べるサイズに」製作委員会








