登場人物の人間像広げた一冊の本、深み増すミュージカル「エリザベート」

東京
エンタメ批評家・インタビュアー・ライター・MC
これだから演劇鑑賞はやめられない
阪 清和

「ルイジ・ルキーニ」という名前は、それなりのミュージカルファンならば、ほとんどの人が知っている名前だ。ハプスブルク家の落日期にオーストリア皇帝の妻として宮廷に嫁いだエリザベート皇后を1898年にスイスのジュネーブで暗殺した犯人である。

エリザベートの生涯をベースにウィーンで制作されたミュージカル「エリザベート」では、堂々と語り手を務めているからだ。道化役のように登場して、軽妙な語り口で王家や社会に皮肉っぽい言葉を投げつけるこの男は、ミュージカルを大いに盛り上げてくれるし、その後「エリザベート」が宝塚歌劇団や東宝でミュージカルとして上演され、瞬く間に日本で大人気作品となっていく過程で、ファンには忘れられない人物となった。しかし、誰もルキーニが何者であるかを知らなかった。「無政府主義者のイタリア人」という最後の肩書だけでは彼のことを何一つ知ったことにはならないのである。昨年秋、その空白を埋める書籍「皇紀エリザベートの暗殺者 ルイジ・ルキーニ回顧録」(集英社インターナショナル)が日本で発売された。ルキーニが獄中で自ら記した回顧録と暗殺事件時の供述などに、早稲田大学大学院出身で現在、大阪大学外国語学部で非常勤講師を務める西川秀和氏が解説を加えたもの。今年10月から来年1月まで全国で上演中のミュージカル「エリザベート」公演は、その書籍でルキーニ像の空白を埋めた日本人たちが初めて観る「エリザベート」になった。(画像は「皇紀エリザベートの暗殺者 ルイジ・ルキーニ回顧録」。四六版ソフトの書籍=写真提供・集英社インターナショナル)

ミュージカル「エリザベート」はエリザベートの物語を始める前に、獄中で自殺してから100年経っても暗殺の背後関係を追及する「声」にあえぐルキーニが死してなお「永遠の審問」を受けている場面から始まる。そして「エリザベート」の物語をルキーニが語り出すのである。

ルキーニにとって「背後関係」などは存在しなかった。無政府主義者組織のリーダーに命じられたわけでもなく、金に目がくらんで引き受けたわけでもない。劇中のルキーニはただ死の世界の帝王トート閣下にナイフを渡されただけなのだ。トートは少女時代に木から落ちて死にかけたドイツの貴族の娘、エリザベートに一目惚れし、すぐにでも死の世界へいざなおうとするが、トートはある思惑によってエリザベートを生の世界に戻した。

エリザベートは姉の見合いに同席している時に、はからずも若きオーストリア皇帝フランツに見初められ、オーストリア皇后となる人生を歩んでいく。 物語は宮廷内の嫁姑問題に疲弊しながらも、自らの美貌やリベラル的な発想で社会や政治にまで影響を与えていくエリザベートと、彼女が心の底から死を望み、トートを愛するようになるようさまざまな手を使って揺さぶっていくトートとの駆け引きを中心に描かれていく。

やがて19世紀の終わりに皇帝の裏切りや息子を襲った悲劇で失意の淵に落ち、宮廷を避けて欧州各地を放浪するように旅していたエリザベートとルキーニは「暗殺」という運命で出会うことになるのだが、ミュージカルで語り手を務めるルキーニはそのさまざまな場面に顔を出し、悲劇の歴史を語り尽くす。

この間のルキーニは世間を斜に見ている軽薄な皮肉屋のように見えるのだが、そのところどころに教養のかけらや社会を批評するような鋭い要素が含まれているのがずっと不思議だった。その疑問が解けたのが、前述した回顧録を読んだ時だった。

著書を読んで分かるのは、ルキーニが私生児としてイタリア人の母のもとに生まれ、パリで捨てられて、孤児院を出て貧しい養育者のもとで育てられた後、軍隊に入ったり、各地を放浪したりする悲惨な人生を社会の底辺で送ってきたこと。

しかし、恵まれない境遇にありながら、彼は膨大な読書量を誇り、新聞も読み込んで、特定の分野では当時のインテリ層さえ太刀打ちできない教養や知識を持っていた人物だったことも分かる。しかもルキーニは労働者として有能だったし、聡明で身体能力も高く、軍隊では高く評価されていた。子どもたちにも好かれ、面倒見も良い。取り調べの過程では、懐柔させるためかもしれないが「お前のような知性を持つ男」と予審判事に言われてもいる。ルキーニの違う一面を見ることになるし、その後、取り返しのつかない悲しい結末へと向かって行ったことが信じられなくもなる。ミュージカルでは軽薄なピエロのように見えていた男の何たる実像。実話をもとにした物語ではよくあることなのかもしれないが、新たな資料や著書で登場人物の人間像が深く掘り下げられた時に、物語の世界がこれほど豊かに膨らんでいくことになるとは驚きだ。

ぜいたくな生活を送っていた超富裕層の一員であるエリザベートを、貧困にあえぐ庶民中の庶民であるルキーニが刺し殺すという一見、分かりやすいテロリズムの裏側に、これほどの社会矛盾が広がっていようとは思ってもいなかった。

皇帝の父フランツと対立して民主的な勢力と結び付いてしまう皇太子ルドルフの考え方はエリザベートがこだわった自由な気風の教育が影響しているという説もあるし、嫁のエリザベートをいじめ抜く皇太后ゾフィーのかたくなさと反帝国主義の弾圧の容赦なさは、小規模な革命で退位を余儀なくされた先帝の後釜に当時わずか18歳で擁立した息子フランツを守るための母親の愛であったとの解釈もある。

こうなってくると、登場人物のすべてにいろんな事情や真情が隠されているようにも思えてきて、ミュージカルを見る目はまったく違うものになってくる。

「エリザベート」はせりふで語っていないことを歌唱部分の歌詞で説明しているケースも多く、まったくもって油断ならないミュージカル。深いところにまで引き込まれてしまう作品なのだ。死の世界の帝王ともなれば、トートには不可能なことなどないと思われがちだが、決してすべてが思い通りに行くわけではない。それが男と女の駆け引きの難しさとも結びつく。踊らされているのは、観客の私たちなのかもしれない。

ミュージカル「エリザベート」は2025年10月10日~11月29日に東京・渋谷の東急シアターオーブで、12月9~18日に札幌市の札幌文化芸術劇場hitaruで、12月29日~2026年1月10日に大阪市の梅田芸術劇場メインホールで、1月19~31日に福岡市の博多座で上演される。

★単行本「皇紀エリザベートの暗殺者 ルイジ・ルキーニ回顧録」(集英社インターナショナル)=集英社公式サイト
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=79767448901273000000

プロフィール
エンタメ批評家・インタビュアー・ライター・MC
阪 清和
共同通信社で記者として従事した31年間のうち約18年は文化部でエンタメ各分野を幅広く担当。2014年にエンタメ批評家・インタビュアー、ライター、エディターとして独立し、ウェブ・雑誌・週刊誌・パンフレット・ガイドブック・広告媒体・新聞・テレビ・ラジオなどで映画・演劇・ドラマ・音楽・漫画・アート・旅・食・メディア戦略・広報戦略に関する批評・インタビュー・ニュース・コラム・解説などを執筆中です。雑誌・新聞などの出版物でのコメンタリーや、ミュージカルなどエンタメ全般に関するテレビなどでのコメント出演、パンフ編集、大手メディアの番組データベース構築支援、公式ガイドブック編集、メディア向けリリース執筆、イベント司会・ナビゲート、作品審査(ミュージカル・ベストテン)・優秀作品選出も手掛け、一般企業のプレスリリース執筆や顧客インタビュー、メディア戦略や広報戦略、文章表現のコンサルティングも。日本レコード大賞、上方漫才大賞ATPテレビ記者賞、FNSドキュメンタリー大賞の元審査員。活動拠点は東京・代官山。Facebookページはフォロワー1万人。noteでは「先週最も多く読まれた記事」に26回、「先月最も多く読まれた記事」に5回選出。ほぼ毎日数回更新のブログはこちら(http://blog.livedoor.jp/andyhouse777/)。noteの専用ページ「阪 清和 note」は(https://note.com/sevenhearts)

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