『木の上の軍隊』監督が語る、堤真一&山田裕貴の“凄み”「役を生きているからこそできる芝居」
2025年、太平洋戦争の終結から80年という節目の夏に公開される映画『木の上の軍隊』。沖縄・伊江島で実際にあった、“戦争の終結を知らないまま木の上で2年間を過ごした兵士たち”の実話をもとに、井上ひさしが原案を手がけた舞台を映画化した。
監督・脚本を務めたのは『ミラクルシティコザ』(22)で注目を集めた平一紘。堤真一と山田裕貴をダブル主演に迎え、極限状態における人間の心の揺れや、戦争の不条理を、静かに、そして時にユーモアを交えて描いた。
監督としての決意、現場でのやりとり、自主映画に打ち込んだ日々まで――率直な思いを聞いた。
“沖縄戦”へのプレッシャーを払拭できた理由

まずはじめに、本作の監督を務めることになった経緯を教えてください。
もともと僕は沖縄を拠点に、テレビCMやドラマ、映画の制作をしていました。商業映画としては『ミラクルシティコザ』を手がけましたが、その後の監督作はなかったんです。そんなときに企画の横澤(匡広)さんから「『木の上の軍隊』を映画化しませんか」と声をかけていただいて、「ぜひやらせてください」と即答したものの、沖縄戦を背景にした作品ということもあり、プレッシャーもありました。
プレッシャーというのは、具体的にどのようなものだったのでしょうか?
お話をいただいた当時、33歳だったんですけど、それまで沖縄戦について積極的に学んだことがなかったんです。学生時代に授業などで触れる機会はあっても、自分から積極的に向き合ったことはなくて。そんな自分がこのテーマを扱っていいのかと、すごく悩みました。
それに僕自身、まだ映画を多く撮ってきたわけでもなく、大きなスケールの戦争映画を撮れるのかどうかも不安でした。でも、舞台版の映像を観て一変したんです。
井上ひさしさんの原案をもとに、(劇作家の)蓬莱竜太さんと(演出家の)栗山民也さんが作り上げた世界は、戦闘を描くのではなく、戦争が終わったことを知らずに、木の上で暮らす2人の男を描いた人間ドラマでした。滑稽で壮絶で、でも感動的で。
それを観たときに、「これなら自分にも描けるかもしれない」「沖縄の仲間たちと一緒に面白い映画にできるんじゃないか」と思えたんです。
堤真一が“現場で生み出した”セリフ

二人の主人公を堤真一さんと山田裕貴さんが演じていますが、キャスティングは監督からの希望だったそうですね。実際の撮影を通して、お二人にはどんな印象を持ちましたか?
原作は反戦がテーマでありながら、随所にユーモアが散りばめられていて、そんな空気をお二人なら自然に出してくれると考えてお願いしました。
安慶名セイジュン役の山田さんについて印象的だったのは、「戦争が終わったら何がしたい?」と与那嶺(津波竜斗)に尋ねられる場面です。脚本では何気ない、“つなぎ”のシーンのつもりで書いていたんですけど、山田さんは僕が考えていた以上に、深い感情を込めて演じてくれました。
「もう少し抑えて」と伝える選択もあったとは思うのですが、それは役を生きているからこそできた芝居だと感じて。僕の感覚で止めるべきではないと判断して、そのまま採用しました。
山下一雄役の堤さんはいかがでしたか?
堤さんは圧倒的でした。「戦争が終わった」と知るシーンでは、段取りの段階では淡々としていたのに、本番になると一気に感情を爆発させて、まさに「戦争が終わったなんて信じたくない男」にしか見えませんでした。
このシーンでは、堤さんからセリフの変更の提案があったんです。もともとは舞台版を踏まえて、「こんなに体もたるんでしまったのに、どの面下げて帰ればいいんだ」というセリフを書いていたんですけど、堤さんは「今の自分が思い浮かべているのは、死んでいった部下たちの顔だ」とおっしゃって、「部下もみんな死んだんだぞ」というセリフを考えてくれたんです。それで一気に切実な思いがあふれたシーンになりました。まさに、現場で生まれた言葉だったと思います。

本作は監督だけでなく、キャストやスタッフも含め、沖縄出身のチームで制作された作品になりましたが、どんな思いがありますか?
僕は本当に運が良かったと思っています。同じ時代、同じ場所に、素晴らしいスタッフやキャストがいてくれたからこそ、この作品を撮ることができました。
例えば、もし技術に不安があるカメラマンしかいなかったら、東京から別の方を呼んでいたと思います。でも実際には、やる気と実力を兼ね備えた仲間たちが地元にいて、同じチームで作品を作ることができました。出身にこだわったわけではなくて、俳優もスタッフも、自分の身のまわりにいた人たちと一緒にやってきたというだけなんです。
これまでに良い作品が撮れていなければ、今回のようなチャンスは巡ってこなかったと思います。でも幸いに、いくつかの作品を形にすることができて、今回も素敵な作品に仕上げることができました。それも、映画を撮れる仲間たちが“たまたま沖縄にいた”からこそだと感じています。
ただ1つ言えるのは、もし僕が沖縄以外で生まれていたら、『木の上の軍隊』の監督を務めることはなかったと思います。きっと別の誰かが撮っていたんじゃないかな、と。それだけは、この島で映画を撮り続けてきたからこそ、巡ってきたご縁だと思っています。
会社で働きながら自主映画を撮り続ける日々

ここからはこれまでのキャリアについても聞かせてください。映画監督を志すようになったのは、いつ頃からだったのでしょうか?
映画はずっと好きでした。子どもの頃、小児ぜん息で東京の病院に通っていて、その合間によく映画を観たんです。暇つぶしのつもりが、大人向けの作品も観るようになって、気づけばすっかり映画オタクになっていました。
高校時代も、ひたすら映画漬けの日々。でも当時は、自分が撮る側になりたいとは考えていなくて。「将来は映画に関われる仕事なら何でもいい」と漠然と考えていました。
大学時代には自主映画を撮られていたんですよね。
本当に軽い気持ちで始めてみたら、めちゃくちゃ面白かったんです。ちょうどその頃、弟が沖縄の国際通りでスカウトされて「俳優やってみようかな」と言い出して。「じゃあ俺、監督やるよ」って(笑)。そこから作品を作るようになって、どんどんのめり込んでいきました。
大学卒業後も、映画作りを続けようと?
そうですね。でも就職活動では、テレビ局も制作会社も全滅で。いくつか受かったのが県内の小売業で、その中でも「映画を撮りながら働けそう」と感じたのが「デパートリウボウ」でした。4連休制度があったり、社内にクリエイティブな空気があって、“映画を撮る前提”で入社を決めました。
入社後の生活は、どのような感じでしたか?
業務後に仲間と打ち合わせ、休日は撮影。あとは基本的にずっと台本を書いていました。短編も含めて年間2〜3本は撮っていたと思います。勤めていた5年間で長編3本、短編8本を撮りました。仕事以外の時間はほぼすべて映画に使っていましたが、全く苦ではなくて、楽しくて仕方なかったですね。
5年勤めて退社し、大学時代の同級生の大城賢吾が立ち上げた制作会社「PROJECT9」に合流しました。それからもずっと自主映画を撮り続けていましたが、まったく売れませんでした。新作を撮っても観客は数十人とか。誰も僕の映画なんて知らない。そんな時期が長く続きました。
転機となったのが「未完成映画予告編大賞」なんですよね。
本編なしで予告編だけを作るコンテストで、優勝すれば3000万円で映画が撮れる。藁(わら)にもすがる思いで応募しました。
ただ、「地名を入れること」という応募条件があって、当時の僕にはそれがすごく引っかかっていて。それまで自分が撮ってきた作品は、“沖縄から逃げている”ものばかりだったんです。沖縄の空気や方言、風景といった“いかにも沖縄”な描写を撮るのに、どうしても抵抗がありました。ゾンビ映画やヤクザ映画、SFなんかを撮っていたのも、沖縄から目を背けたい気持ちの表れだったのかもしれません。
だから最初は、ベトナムを舞台にした企画を考えたんですけど、仲間に「面白くない」と言われて。それで渋々コザを舞台にした話を考えたら、思いのほか面白かった。避けていた場所に、物語の種があったんです。その予告編でグランプリを獲って、『ミラクルシティコザ』での商業監督デビューにつながりました。18歳で始めて、ここまでに12年かかりましたね。
辞めてしまった人からチャンスはなくなる

『ミラクルシティコザ』の後には、今年2025年公開の映画『STEP OUT にーにーのニライカナイ』で堤幸彦監督と共同監督も務めました。ちなみに、会社員時代の経験が、今の映画作りの現場に活きていると感じることはありますか?
すごくあります。当時の職場は社員とアルバイトを合わせて1000人以上で、僕は平社員でしたが、ありがたいことに大きなプロジェクトも担当させてもらえて。組織の中で人がどう動いているか、どう情報が伝わるかが自然と見えてきたんです。
それは映画作りにも通じますね。
映画の現場では年上のスタッフも多く、演出部のリーダーとしてどう振る舞えば現場が回るのかを常に考えます。「意見がどこかで止まっているな」とか、「あえて僕に届かないようにしているな」といった空気も、経験があると見えてくるんです。こうした感覚は、会社員時代に培ったものだと思います。
読者の中には、働きながら映画監督やクリエイターを目指している方も多いと思います。最後に、そういった方々に向けて、アドバイスやメッセージをお願いします。
僕は本当に運が良かったんです。周囲のスタッフや題材に恵まれて、こうして話を聞いていただける立場にいますけど、20代の頃は諦めそうになることもありました。ただ、状況が違っていたとしても、僕は映画作りを続けていたと思うんです。
映画以外に強く惹かれるものがなかったからです。もしこれを読んでいる方で、何か好きなことがあって、それを副業でも続けているなら、もうそれだけで十分に幸せだと思います。その気持ちを持ち続けていれば、諦める必要はなくて。ただ、辞めてしまった人から、チャンスはなくなる。それだけは確かです。
僕もまだ30代の若造ですけど、1つアドバイスできるとしたら、「これはチャンスかもしれない」と感じた仕事が舞い込んできたときには、その場で受けるべきだと思います。
世の中には、迷っているうちに他人の手に渡ってしまうチャンスが山ほどあります。僕も一度、大きな仕事の話を逃しました。迷うところがあって、いったん返事を保留して3日後にプロットを提出したら、「もう別の人に頼んだ」と言われたんです。
クリエイターに与えられるチャンスは、他の職業とは質が違って、一度逃すと戻ってこないこともあります。だからこそ、「これは逃せない」と思ったら、「やります」と即答する。その勇気が大切だと思います。
取材日:2025年6月23日 ライター:堀タツヤ 動画撮影・編集:指田泰地
『木の上の軍隊』

©2025「木の上の軍隊」製作委員会
沖縄先行公開中/2025年7月25日(金)新宿ピカデリー他全国ロードショー
出演:堤真一 山田裕貴
監督・脚本:平一紘
原作:「木の上の軍隊」(株式会社こまつ座、原案:井上ひさし)
企画:横澤匡広
プロデューサー:横澤匡広 小西啓介 井上麻矢
制作プロデューサー:大城賢吾
企画製作プロダクション:エコーズ
企画協力:こまつ座
制作プロダクション:キリシマ一九四五 PROJECT9
後援:沖縄県
特別協力:伊江村
製作幹事・配給:ハピネットファントム・スタジオ
©2025「木の上の軍隊」製作委員会
公式サイト:https://happinet-phantom.com/kinouenoguntai/
公式X:https://x.com/kinoue_guntai
ストーリー
太平洋戦争末期、戦況が悪化の一途を辿る1945年。飛行場の占領を狙い、沖縄県伊江島に米軍が侵攻。激しい攻防戦の末に、島は壊滅的な状況に陥っていた。宮崎から派兵された少尉・山下一雄(堤真一)と沖縄出身の新兵・安慶名セイジュン(山田裕貴)は、敵の銃撃に追い詰められ、大きなガジュマルの木の上に身を潜める。仲間の死体は増え続け、圧倒的な戦力の差を目の当たりにした山下は、援軍が来るまでその場で待機することを決断する。戦闘経験が豊富で国家を背負う厳格な上官・山下と、島から出たことがなくどこか呑気な新兵・安慶名は、話が嚙み合わないながらも、二人きりでじっと恐怖と飢えに耐え忍んでいた。やがて戦争は日本の敗戦をもって終結するが、そのことを知る術もない二人の“孤独な戦争”は続いていく。極限の樹上生活の中で、彼らが必死に戦い続けたものとは――。







