異質の他者との出会いが大事。打ちのめされたり発見があって人は進化していく

Vol.148
映画監督 滝田洋二郎(Yojiro Takita)氏
Profile
1955年生まれ、富山県出身。1981年に成人映画の監督としてデビュー。2008年に制作した『おくりびと』で米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞。日本映画では初となる快挙だった。その後も『天地明察』(12年)『ラストレシピ~麒麟の舌の記憶~』(17年)など作品を公開。2014年には紫綬褒章を受章した。
女優・吉永小百合さんの出演映画120本目の節目にあたる、北の三部作のラストを飾る映画『北の桜守』。北海道の雄大な大地を舞台に、大戦末期から高度経済成長期という激動の時代を生き抜いた“親子の物語"。今回は、本作の監督でもあり、映画『おくりびと』で米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞した滝田洋二郎(たきた ようじろう)監督に、吉永さんの魅力や本作の魅力、また監督を目指したきっかけなどを語っていただきました。インタビューから、クリエイターなら忘れてはいけない大事な思いが見えてきました。

現場の雰囲気を変える桁違いのスーパースター、女優・吉永小百合。

映画「北の桜守」より

本作は、吉永小百合さんにとって出演映画120作目にあたる記念すべき作品となりましたが、最初にこの話を聞いたとき、どのように感じられましたか?

いつかは吉永さんとお仕事をご一緒したいと思っていたので、「やっときた!」という感じでした。同時に、吉永さんが主演される作品は“吉永小百合の映画"になります。そこで、どれだけ“滝田洋二郎の映画"にできるのか?ということを考えました。その両方がないと映画が輝かないですから。

監督から見て、吉永小百合さんはどのように映りましたか?

桁違いのスーパースター。デビューから60年、世の人のあこがれの存在として常に生きてきて、常にずっと輝き続けている女優。僕だけでなくすべての人が感じていると思いますが、“特別な人"だと思います。もちろんご本人の努力のたまものだと思いますが、実際に今回撮影して、改めて “スター性"を感じました。吉永さんがいらっしゃるだけで現場の雰囲気が変わるというか。何も言わなくても大事なことが伝わってくる、そういう方です。

今回は、“親子の物語”でもあり、“老い”もテーマになっていますね。

吉永さん演じる「てつ」と堺雅人さん演じる「修二郎」は少し特殊な親子関係です。お互いにコンプレックスをバネにして生きてきたたくましい一面があって……。なんだかんだ言ってもやっぱり親子なんだなという“絆”をしっかり描こうと思いました。そして、“老い”ですよね。誰にも訪れる死の一歩手前の時間。自分の両親に置き換えると、リアリティを持って感じるはずです。僕なんかもそうですが、吉永さんも自分の母親を思い描いていたとおっしゃっていました。その自分のところにやってきた“老い”に対して困っている感じをきちんと伝えたいと思いました。

自分の老いに戸惑っている「てつ」の心情やサハリンからの引き上げを描くところは、劇中劇のように“舞台”で表現されていますが、これはどのようにして生まれたのでしょうか?

サハリンからの引き上げや戦闘シーンなど映画でやっても説明的になってしまうところは、あえて“舞台"という箱の中で表現してもらうと面白いのではと考えてこのような形にしました。そしてその中で心理描写みたいなものをうまく表現することできたらと思い、演出はKERAさん(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)にお任せしました。カメラで録っているのは僕なんだけど舞台はKERAさんの演出。てつの心理も舞台ならではの演出で表現されたことで、面白くなったと思います。

自然は思ってもみなかった画をつくりあげる。狙っても撮れないような風景に出会う

映画「北の桜守」

今回は、シナリオハンティングで吉永さんと舞台となる網走やサハリン(旧樺太)に行かれたとのことですが、サハリンを訪れてどのように感じましたか?

第二次世界大戦のときは日本だった樺太は、サハリンと呼ばれ、今は外国なんだけど、街はどこか日本の名残があって不思議な感覚に襲われました。昔ながらの日本が見え隠れする場所で……。樺太で生まれて未だ日本の地に一度も足を踏み入れていないという方にもお話を伺ったのですが、結婚されて子どもが産まれ孫ができ、みなさんそれぞれに色んな人生があることを知りました。戦後から70年以上も経っているのに、解決されていない問題もあり、まだまだ戦争を身近に感じました。多くのことを学ぶ体験でした。

撮影は、網走の能取(のとろ)岬、稚内の宗谷丘陵や声問(こえとい)海岸といった土地で冬と初夏に長期ロケを行ったとのことですが、印象に残った場所などはありますか?

本当に北海道は壮観な風景が多かったです。そして観光地でない場所にドラマがあるな、と思いましたね。吉永さんも印象的だったとおっしゃっていましたが、宗谷丘陵は本当に素晴らしかった。天気のいい日は海まで見下ろすことができる場所で、撮影のときは一面に霧がかかっていて……。もう(テオ・)アンゲロブロスのような世界。そのような二度と出合えない風景に何度も巡り合えたのは本当にありがたかったです。映画って生き物だなと思いますね。大変だったことは網走で撮影した流氷を前にするシーン。前日の夕方まで流氷に覆われていたのに、次の日に撮影に行ったらひとつもなくなっていて、どうも前日に風向きが変わって遠くへ流れていってしまったみたいなのですが、不思議な光景でしたね。一晩でなくなるなんて、自然の力の偉大さを感じました。

※ テオ・アンゲロプロス(1935年4月27日 - 2012年1月24日)は、ギリシャ・アテネ出身の映画監督。重厚な作品が多く、曇天や降水時での撮影が多いのも特徴。

ロケだとそのときの自然環境によって画が変わっていきますよね。そのときはどのように対応するのですか?

流氷のように必ず必要な画は、別の日に改めて撮影します。でも、意外と思ってもみなかったステキな画が撮れるときもあるんです。たとえば、「てつ」たちが疎開する道中を撮影したような北海道の広い大地で撮影していると、太陽の下に雲がかかって急に影が広がっていく瞬間があります。そのように、滅多に見られない風景が生まれ、そのシーンの内容にうまくハマっている場合は、今しかない!とテストを飛ばしてすぐに本番を撮ります。今回の撮影は、自然にも恵まれたので、狙っても撮れない風景が広がっていますよ。

ちなみに広い大地や高さ約7mの崖を鉄輪とロープを使って登っていく太田神社では、ドローンを使った大掛かりな撮影が行われたとのことですが。

ドローンを使うと世界が変わる画が撮れます。見たことのない目線で撮れて、しかも動いてコントロールできる。もちろんクレーンも使いますが、クレーンだとある程度固定されているのであそこまで自由に動かないですから、本当に全く違う世界を表現できるのです。今の技術があったからこそ撮れたというシーンはありますね。新しい技術を使って思いが伝わる映画になったと思いますよ。

一緒に夢に浸れる仲間の存在とつくることが面白いと思えることが原動力。

そもそも監督はなぜ映画監督になろうと思ったのですか?

なろうと思ったというより、現場でうろうろしていたらいつの間にかなっていた、というのが近いかな。つくり手になりたいという思いはそれほどではなかったんです。映画というものは特殊な人がつくるものであって、普通の人は観るものだという意識が強かったのです。映画は音楽と違って一人でつくれないし、身近なものではなかったですから。現場で仕事をするなかで、「映画をつくる人は特別な人じゃないんだ」ということを知りました。それ以降は、「何かはできるかもしれない」という気持ちが沸き出てきて、若かったってことですが、あの人にできるなら僕もできるだろうみたいな風に思うようになりました(笑)。

制作費も少ない成人映画の監督としてデビューされましたが、映画の仕事を辞めようと思ったことはありますか?

金がないのはどこもそうだったけど、当時は縦社会がすごくって……。ただ現場で仕事をいると、何かができる喜びというものがあるんですよ。例えば、自分のアイデアが通って、それを誰かが演じて演出してくれていると、「あれっ!? つくるのって面白いよな!」と感じたり。それが原動力でしたね。あと、当時は小さいけれど仲間意識みたいなものがあって……。あいつがいるから辞めないみたいな気持ちは持っていました。そして朝まで飲んだりして。最初は愚痴から始まって、そのうち途中から映画について語り出して、言いたいことをぶつけ合う……。そういう時間って大事なんじゃないかな。浸る時間というか。それを共有し合える仲間も大事で。今も昔も、先のことなんて誰も分からないと思いますよ。ただ、方程式がないからこの世界が面白いわけで。理解できないことがあって当たり前なんだから。それを楽しむ、ということが大事だと思いますね。

同じ方向を見ている仲間って大切ですよね。

今のクリエイターは、個人になりすぎて横のつながりが希薄なんだと思います。それは彼らのせいばかりではないんだけど。ただ、できるだけそうならないようにやっていくのがいいのかな。人と話をすることで見えてくることっていっぱいあると思うんですよ。自分の世界を変えようとせずにこの業界を辞めていく人もいるけど、自分の世界なんて抜け出して変えていっちゃったほうがいい。世界って、怒られたり楽しんでいる中で変わっていくものだしね。そしてやっぱり継続が大事。変化を恐れずに続けていくことです。

自分に嘘をつかずに今持っている力を出そうとすることが大事

監督は若いころ、撮りたいものはありましたか?

具体的なものはなかったけど、映画はユーモアがないと楽しくないと思っていましたね。人は滑稽なものなんだから。アクションでもシリアスでも、笑いがあって心に染み入る何かがある作品が僕は好きだな。

監督の代表作『おくりびと』も“死"がテーマでしたがその中にはユーモアが入っていますね。監督にとってアカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』はどのような作品ですか?

アカデミー賞を受賞したことは、神様からのすごい落とし物を拾ってしまったような、ありがたくもあり、めんどくさくもある、経験でした(笑)。あれから9年経ちますが、まだこの作品によって自分が変化したという実感はないんです。『おくりびと』に限らずすべて作品が、自分にとって等しく大事な作品です。どんな作品でも、撮っているときは自分に嘘をつかないことが大事だと思っています。手を抜かないでしっかりと向き合って作ってきました。もちろん結果として空振りをしたこともあるし、ホームラン手前のこともあるし、自ら退場みたいなこともある(笑)。でもその時その時に思っていたことを自分でちゃんと出し切ろうとしてきました。「出し切ろう」としたこと自体がが大事なことで、それが次の作品をつくるときの自分の心の支えになっていると思います。

出し切ろうとするその心持こそが作品を作るということでしょうか?

心の持ち方は、すべての行動の軸になるので、そこだけは忘れずに持っていなきゃいけないと思います。流行っているからとか、周りがこう言っているからとか、情報が溢れる現代は、情報だけを見て何かを提案してももう遅いんです。その情報の裏だったり、その現象の背景をちゃんと見つめることが大事です。そして、そういう目を養うためには、外に出ることが大事なんだと思います。そこでは、異質の他者との出会いによって、打ちのめされたり、発見したり、見たこと感じたこともない面白いことがあったりするかもしれない。そういう経験を積んで、自分の考えを確立していくことが大事だと思います。人は進化するために変わってくものですから、何事も恐れてはダメですよ!

取材日:2018年1月4日 ライター:玉置晴子

滝田洋二郎(Yojiro Takita)氏 映画監督

1955年生まれ、富山県出身。1981年に成人映画の監督としてデビュー。1986年に『コミック雑誌なんかいらない!』がニューヨーク映画祭で絶賛され話題に。2004年に『壬生義士伝』で日本アカデミー賞優秀作品賞を受賞。2008年に制作した『おくりびと』で部国アカデミー賞外国語映画賞を受賞。日本映画では初となる快挙だった。その後も『天地明察』(12年)『ラストレシピ~麒麟の舌の記憶~』(17年)など作品を公開。2014年には紫綬褒章を受章した。

『北の桜守』

  • 監督:滝田洋二郎
  • 脚本:那須真知子
  • 舞台演出: ケラリーノ・サンドロヴィッチ
  • 音楽: 小椋佳 / 星勝 / 海田省吾
  • 撮影監督:浜田毅
  • キャスト:吉永小百合
         堺雅人、篠原涼子、岸部一徳、高島礼子、永島敏行、笑福亭鶴瓶、中村雅俊、阿部寛、佐藤浩市
  • 製作プロダクション:東映東京撮影所
  • 配給:東映
  • ©2018映画「北の桜守」製作委員会
3月10日(土)全国ロードショー

 

ストーリー

1945年5月、南樺太に住む江蓮(えづれ)家の庭に待望の桜が花開いた。夫と息子たちと暮らす江蓮てつが大切に育てたその花は、やがて家族の約束となる。

しかし8月、本土が終戦に向かう中、樺太にはソ連軍が迫っていた。樺太に残る夫との再会を約束し、てつは二人の息子を連れて網走へと逃げ延びる。

時は流れ1971年、次男の修二郎はアメリカに渡って成功し、米国企業の日本社長として帰国する。15年ぶりに網走へ母を訪ねると、そこには年老いたてつの姿があった。一人暮らしが心もとなく思えるその様子に、再び母と共に暮らす決意を固める修二郎。しかし想いあうがゆえに母子はすれ違いを重ね、立派になった修二郎に迷惑をかけたくないと、てつは一人網走に戻ろうとする。

母に寄り添いたいと願う修二郎は、二人で北海道の各地を巡り、共に過ごした記憶を拾い集めるように旅を始める。再会を誓った家族への想い。寒さと貧しさに耐え、懸命に生き抜いた親子の記憶。戦後の苦難を共にした懐かしく温かい人々との再会。幸せとは、記憶とは、そして親子とは。

そして満開の桜の下で明かされる、衝撃の結末――

くわしくは、映画『北の桜守』公式サイトをご覧ください。

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