マクナマラの誤謬

Vol.010
CMプロデューサー
Hikaru Sakuragi
櫻木 光

マクナマラの誤謬(ごびゅう)という言葉がある。

 

ベトナム戦争時、ケネディ政権下でアメリカの国防長官だった
ロバート・マクナマラは戦況を判断するのに、戦争で死んだ兵隊の死体の数
を数えることに執着した。

 

マクナマラ規律やボディカウントというタイトルまでつけて、
アメリカ兵死者数よりベトナム兵の死者数が多い限り、アメリカは勝利への
道を突き進んでいる。と判断したらしい。アホなやつだ。
この判断は、ベトナム人の根気強さや愛国心、反米感情、アメリカ国内の反戦感情などの
非定量的な要素、つまり、人間の数値化できない感情などの部分を全く無視して
いたため、結果的に戦争を泥沼化してしまった。ということになっている。
そして負けてしまう。

 

この人、フォードモータースの社長だった時に、自分の数字基準で車を売って
フォードの業績を伸ばした実力を買われ政権入りし、それを戦争に当てはめて
失敗した。と言われています。「測定できないことは重要ではない」と言ったとか。
量的誤謬とも言われています。

 

この「マクナマラの誤謬」という言葉は、定量的な評価だけでは物事の本質を捉えられない。
「数字にばかりこだわり、物事の全体像を見失うこと」
ということの例え話としてアメリカの諺になってしまいました。

 

こんな奴本当に居たのかよ?と思うくらい酷い話であるんですが、僕の国日本でも
この人の考えていたようなことしか考えられない人が多いような気がします。
その時から50年近く時間が経過しているのに。です。

 

何年か前に、国立大学の文学部を削除する方針とかが打ち出されたりしていましたが
ものすごい勘違いが起きているのではないかと心配になったりします。

 

表面的には、実際に利益を生み出す理工学的なものを優先したいという考えなのでしょうが、それを活かすために、社会学的なものがそのバックにあって、その社会学をコントロールできるのが人文学的なものじゃないのかよ?

 

実際の利益は人間を離れて存在するわけではありません。誰かが儲けて誰かが損するわけですが、そんな中で人間的なことを排除することが効率がいいという判断をしたがる、
学生の頃に異性に人気がなくて、人の気持ちなんか考えなくて育った人たちが、ある一定数いるんだということがわかります。

 

そもそも、学生の頃にずいぶん苦しめられてきた、「偏差値」というものが、ロバート・マクナマラそのものだと思うのです。この偏差値原理主義からくる教育制度は、平たくいうと、自分の才能や努力は自分のためだけに使うということが前提になる。それも必ず答えのある高等なクイズの難問に幾つ正解したか?で競っているようなものでもある。
ただただ自分の相対的位置を上げることに専念したその勝者が、人間的に価値があるとされて指導的な位置につく。

 

そこに愛はあるんか?

 

偏差値教育のいく先は「愛のない社会」なのではないだろうか?
そういう意味では日本全体がマクナマラ化した社会を作っちゃった。
勘違いじゃなくて間違った社会ができちゃっている。と思う。
数値で表せない、答えのないことに対処できない偉い人に自分の価値を委ねたくない。

 

僕の時は少なくともそうだったんだけど。いまの若い人たちはどうなんだろう?
教育のレベルも上がって、もっと愛のある教育なんだろうか?

 

宇多田ヒカルが、ファンからの質問に答えた言葉にドキッとしたことがある。

 

「誰かとの別れを乗り越えるのはなぜこんなに心が痛いのか」という質問に対して
宇多田は
「関係が終わったり、誰かを失ったりする時に痛みを感じるのであれば、それは最初から心の中にあって、その関係が痛み止めのような役割を果たしていたんだと思います」
と答えた。
つまり、人の心は常に痛みを感じていて、恋人や関係の深い他人の存在は痛み止めの役を果たす。というものだった。なんとも深いことをおっしゃる。その通りだと思う。
その痛み止めにはある程度の依存がひっついてくる。
そんな相手との距離感を失敗し、失い、苦しみながら学ぶのが人生でもある。

 

そして、その人間関係と同質なものとしてエンターテインメントがあって、小説、映画、音楽、演劇、芸術、スポーツ。そういった人を楽しませようと作られたものは全て心の痛み止めなんじゃないかと思った。その良し悪しも数値で表すことはできない。

 

人文学系の学問も含めた人間の創作物は、心の痛み止めなのだ。
そう言ったものを、数値で表せないからという理由で世の中や教育から排除しようという考え方は、痛み止めのない生活を人間に強いるということになる。痛い痛い。楽しい苦しいは数値では現れません。みたいなことを思っている、痛みすら感じなくなった老人が仕切る社会の風潮では、心を壊す人や自殺者が減らないんじゃないか?

 

マクナマラの誤謬だらけの日本をなんとかしなきゃ国が無くなってしまうような気がする。

プロフィール
CMプロデューサー
櫻木 光
自分の関わった仕事の案件で、矢面に立つのは当たり前と、体と気持ちを突っ張って仕事をしていたら、ついたあだ名は「番長」。 52歳で初めて子どもを授かったのでいまや「子連れ番長」。子連れは、今までとは質の違う、考えた事も無かった様な出来事が連発するような日々になったけれど、守りに入らず、世の中の不条理に対する怒りを忘れず、諦めず、悪者だけど卑怯者にはならない様に生きていたいと思っております。

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