今月、実感したこと。
今月、義父が亡くなった。
人が死ぬというのは、とても大きなことのはずなのに、実際に起きてみると、それはひとつの「出来事」でもあるのだと思う。
亡くなったと連絡を受け、移動し、親族に連絡をし、葬儀社と打ち合わせをし、通夜と告別式の準備をする。
残された人たちは、きちんと悲しむための場をつくるために、とにかく動く。
なのであんまり、じっくり悲しむ時間もない。
亡くなった義父の顔を見たとき、数年前に亡くなった母のことを思い出した。
不思議なもので、人は亡くなると、生きていたときとは少し顔が違って見える。
母のときもそうだったが、なぜか少し若返ったように見えるのだ。
苦しさや疲れのようなものが抜けて、ずいぶん静かな顔になる。
そして火葬が終わり、お骨になった義父を見た。
人間というのは、みんな最後にはこうなるのだな、と思った。
生きて、歩いて、しゃべって、誰かと喧嘩をして、ごはんを食べて、働いて、笑って、歳をとる。
それがいつか動けなくなり、死んで、最後には骨になる。
そこまで来ると、あれだけいろいろあった人間の身体も、ただの物質になる。
誰もがみんな、そうなる。
とはいえ、葬儀が終わったからといって、何もかも終わるわけではない。
通夜告別式が終わった次の週、私はいつもと同じ生活に戻ろうとした。
仕事に行って、ごはんを食べて、いつもの日常をまた続けるつもりだった。
ところが、身体のほうが先に悲鳴をあげた。
急に貧血を起こして倒れたのだ。
自分ではもう日常に戻ったつもりでも、身体はそうではなかったのかもしれない。
それから今に至るまで、体調はぐずぐずと調子が悪い。
人間というのは案外しぶとい一方で、思っているよりずっと脆いものらしい。
そして、そんなこちらの事情とは関係なく、現実的な作業も続いていく。
私はそうはいっても嫁なので、主に夫があれこれ動くのを手伝ったりしているだけなのだが。
役所へ行き、何の手続きが必要なのか聞き、書類を書き、「これは委任状が必要です」と言われて一度家に取りに戻り。
義姉に「ここにハンコをくださいー」とか「サインくださいー」とかてんやわんやしたりする。
人ひとりがこの世からいなくなると、やることは結構あるものだ、と驚く。
身体としての義父は、あっという間にいなくなった。
けれど、社会の中にいた義父はそう簡単にはいなくならない。
書類の上にも、契約の上にも、生活のあちこちにも、「この人はここにいました」という痕跡が残っている。
それをひとつずつ整理していく作業は、今もまだ続けている。主に夫が。
一連のことを見ていると、自分もいつかはこうなるのだと思う。
愛した人も、いつかはそうなる。
いろんなものを見て、聞いて、感じて、ごはんを食べて、眠って、泣いて、笑って、怒って、感動して。
面倒くさいことに振り回され、どうでもいいことで悩み、たまにものすごく幸せなことがあって。
そんなことを繰り返しているうちに、人生は終わる。
長いようで、たぶんずいぶん短い。
なんて短いんだろう。







