十二単を着なかった小野小町

東京
フリーライター
youichi tsunoda
角田陽一

平安時代のシンボルは「十二単」
だが平安時代400年を通してだろうか

令和6年の大河ドラマは「光る君へ」
「源氏物語」の作者である紫式部を主人公に据えた、大河ドラマ史上では珍しい「平安時代」が主題の物語。十二単の高貴なお方が深遠な「女子会」に興じ、狩衣に烏帽子の貴公子は父の権力抗争の手ごまとして暗躍する。派手な合戦シーンこそないものの、内面では陰陽師を交えたドロドロな思惑が交錯する。「冷戦大河」とでも言えようか。

そんな平安時代のシンボルは「十二単」である。

さて、平安時代と言えば基本的には桓武天皇が都を平城京から長岡を経て平安京、現在の京都市に遷した西暦794年から、源頼朝が鎌倉幕府を興したとされる1192年、約400年の長きに渡る。江戸時代の約250年よりも、昭和の64年よりもはるかに長い。

400年もの期間があれば、技術は、そして生活の流行はこまごまと移り変わっていくだろう。

そんな400年もの間、当時の平均寿命を考えれば10世代も代が変わる長き時代を「十二単がシンボルだった」と言い切っていいものだろうか。

奈良時代の上流階級は
中華風のコスチュームだった 

前代の奈良時代は、中国は唐王朝の文化的影響が強かった。政治から宮中の流行まで多岐にわたっていた。

上記は中国唐王朝時代の壁画。
音楽を奏でる女性たち


©tanhql

そして上の写真は、我が国の奈良時代の女官に扮した現代女性。
後の紫式部のポジションにある女性たちの服装は十二単ではなく、中国唐王朝の影響が強い服装だった。上半身はブラウス状の上着、下半身は巻きスカート、そして髪はストレートの超ロングではなく、頭上で結い上げる。

後の平安期よりはるかに活動的だった。

そして都が長岡から平安京に移っても、その流行はおいそれと改まるものではない。前代同様に中華風の影響の強いコスチュームだった。

だが西暦894年に中国への使節「遣唐使」が廃止となり、以降は「国風化」が進む。以降、髪はロング、上着は何枚もの単衣を重ねる。そして単衣の色の重なりのグラデーションを「美意識」として誇る…

源氏物語の成立から百年後にえがかれた『源氏物語絵巻』には我々がイメージする「十二単」が描かれているので、女性の平安装束はこの時代には成立していたのだろう。だが、作者の紫式部が生きていた西暦1000年ころは、まさに「中華風」から「和風」の過渡期だった。

小野小町は9世紀、西暦800年代の女性
当時は十二単は存在しなかった

ここで原題に戻ろう。

小野小町は十二単を着なかった

小野小町と言えば、世界三大美女の一人。他の二人がクレオパトラと楊貴妃と言うあたり、こんなことを言い出したのは間違いなく日本人…というのはさておいて、彼女が生まれたのは西暦800年代、つまり都が平安京になってから数十年のちとされている。

「美女」とされる彼女の容貌を同時代の人がうつした絵画や彫刻は、現在の所は発見されていない。だが「平安時代」の言葉に引きずられて、彼女を描いた後世の絵画はいずれも十二単姿である。

 

前述のように、平安時代前期の当時に十二単は存在しなかった

では小野小町はどのようなコスチュームだったのだろうか。

ここで同時代の女性のコスチュームを推察するに当たり参考となるのが、「神像」である。日本の在来宗教・神道ではもともと神の姿を形として表すことが無かった。だが仏教の仏像の影響を受け、神の姿を像として表す思考が生まれた。このあたりが「偶像崇拝の是非」で国も揺れるオリエント世界とも異なる、日本の微妙なユルさとも言えようか。

さて、天照大神に神功皇后、豊受大神と神道には女神がいる。時代考証も無い時代ゆえ、神の姿は「作られた時代の高貴な女性」として表される。

一例として奈良国立博物館に寄託されている「仲津姫命坐像」を挙げてみよう。薬師寺の鎮守・休ヶ岡八幡宮のご神体として平安時代初期に「僧形八幡神」「神功皇后」とともに作られたものだ。

 

ふくよかな女性。

いわゆる「平安美人」のイメージは当時からすでに定着していたのだろうか。さておき身にまとう衣はゆったりした仕立てながら上半身と下半身に分かれ、後の「十二単」とは明らかに異なっている。

そして一番の特徴は髪型

頭上で髷を結い上げ、残った長髪は肩に垂らす。「長髪」ながら長さは胸に届くほど。のちの平安美人のように身の丈に余るまでには達していない。

この「仲津姫命坐像」が作られたのは西暦890年頃とされている。
小野小町の生年はその数十年後。

小野小町は十二単を着なかった
実際には上記のようなコスチュームだった

さて…

紫式部の手による「源氏物語」が成立したのは西暦1000年から1008年の間とされる。その書き出しはあまりにも有名な

 

いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり

(どの帝の御代であったか、女房や更衣があまたお仕えしている中に、それほど高い身分ではないが特別にご寵愛を受けている方があった…)

いずれの御時にか…

つまり源氏物語は「過去形」で描かれているのだ。
桐壺の更衣も、源氏の君も、そして源氏の君が愛した紫の上も若紫も末摘花も、みな過去の存在なのだ。

彼女たちははたして十二単を着ていたのだろうか?

 

※参考文献
『謎の平安前期―桓武天皇から「源氏物語』誕生までの200年』 (中公新書 2783) 新書 –2023年 榎村 寛之 (著)
©の無い画像はWikimedia Commonsより

プロフィール
フリーライター
角田陽一
1974年、北海道生まれ。2004年よりフリーライター。アウトドアや北海道の歴史文化を中心に執筆。著書に『図解アイヌ』(新紀元社 2018年)、執筆協力に『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』(宝島社 2019年)、『アイヌの真実』(ベストセラーズ 2020年)など。

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