「復興」のあとに

東京
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TOKYOそういえば日記 59
コジマカツヒコ

トップ画像は名取川の土手の上から河口側を撮った写真です。画面左手が名取川で右手が土手、

正面の奥に仙台湾の海が見えます。

 

 

テレビのニュースを見ていると能登半島にようやくボランティアが本格的に

入れるようになって「復興」の言葉が出はじめました。

 

その「復興」について。去年、宮城県で聞いた小さな話を書き記します。

 

場所は宮城県名取市の閖上地区。この(地図ご参照)あたりです。

 

どんな町かというと、名取川の河口に位置する閖上地区は江戸時代は仙台藩直轄の港として

仙台に魚介類を供給しながら栄えた漁業の盛んな町だったそうです。

東日本大震災前は沿岸部に多くの住宅が建ち、以前の閖上地区付近には2,000世帯以上約5,700人が住んでいました。

しかし大津波に襲われて住民の約1割に及ぶ約750人が犠牲に。名取市全体では1,000人近い市民の命が失われています。

 

そこを昨年の夏に訪れました。

ある建材メーカーさんの仕事で、家を新築されたオーナーさんに取材をするという内容です。

 

装飾や敷石へのこだわりなど話を聞き終えたあと、やはり気になってしまうのが震災のこと。

というのも視界に映る町の様子がまるで昨年売り出されたばかりの新興住宅地のように、

道のアスファルトも宅地の土も、すべてが不自然なくらい新しかったからです。

 

話を切り出すと、50歳の女性のオーナーさんはいろいろと話を聞かせてくれました。

 

・我々が立っているのは海岸から直線で2kmの場所で町が津波に丸呑みにされたこと。

・津波は名取川の高い土手を超えてきて海岸から直線で3kmの場所を走る仙台東部道路でやっと止まったこと。

・町を復興させるにあたり地区全体に盛り土をして1.5m~最大5mの地盤のカサ上げを行ったこと。

・もともとこの場所に家があったが戻れたのは2011年の震災から9年後の2020年だったこと。

 

などなど。9年ですよ。長い時間ですね。

 

そしてもうひとつ語ってくれたのは、暮らしの変化でした。

地震を思い出したくなかったり避難先で馴染んだりして、元の土地に戻らなかった人がたくさんいたそうです。

「ウチのまわりはかなりの割合が別の土地から引っ越されてきた人たちです」と。

 

「風景は復興できるんですけれどねぇ」とも。

 

住民の入れ替わりが進むと暮らしの習慣も影響を受けるそうです。

 

冒頭で触れましたがここはもともと漁業の盛んな港町。

それゆえ「買った鮮魚は自宅の軒先でさばく」のが普通なのだそうです。

 

魚を買う時はまるっと一匹。かつてはどこの家にも玄関先に簡易的な「流し」があって

まな板と出刃包丁で魚をおろす。それがこの町の日常でした。

でも新しい住民が増えたことで「魚臭いと思われたりするかな?」と気兼ねしてしまい

新しい流しをなかなか作れずにいるそうです。

 

そこはぜひ復活させてください、と言い、町を離れました。

 

復興に関わるニュースではあまり取り上げられない小さな変化ですけれど

町を作り直すとこういうリセットが起こるのだ、と実感しました。

 

能登ではこれから何が変わっていくのでしょうか。

 

 

 

[名取市の被害数において参考にさせて頂いたサイト]

科学技術振興機構「東日本大震災から12年でも復興は「道半ば」 住民の1割が犠牲になった宮城県名取市・閖上から」

https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20230327_e01/

 

[名取市の地盤カサ上げにおいて参考にさせて頂いたサイト]

東北地方整備局「仙台湾南部海岸堤防が完成し、津波防災・減災対策が大きく前進」

https://www.thr.mlit.go.jp/Bumon/kisya/kisyah/images/59757_1.pdf

プロフィール
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コジマカツヒコ
大河ドラマ「光る君へ」は“集英社コバルト文庫”っぽい面白さがありますよね(褒め言葉です)。

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