「三国志」曹操の「鶏肋」を作ってみた

東京
フリーライター
youichi tsunoda
角田陽一

三国志グルメの定番
それが「鶏肋」

2世紀の中国大陸
時の後漢王朝は、圧政と腐敗、さらには天候不順を受けて衰退していた。
乱世の中で群雄が割拠していた。
袁招に董卓、曹操に劉備、孫権

やがて漢王朝は滅亡し、天下は三国に分かれた。
曹操の「
孫権の「
劉備の「

三国が天下統一を目指してせめぎ合う、「三国志」の物語である。

ふと漏らした「鶏肋」
アッサリ推理して自滅する 

さて今回は「三国志演義」では悪役とされる、魏の曹操の物語。
西暦219年、曹操は悩んでいた。
「漢中」の地の領有権をめぐり、劉備と持久戦を強いられていた。
だが勝敗の行方は定まらない。

当地・漢中は黄河の支流・渭水のほとりに開けた盆地。
長安の街からは山一つ越した位置にあり。長江の支流・漢江が流れ長江流域にもつながる交通の要衝だ。
とはいえ、実りの豊かな土地ではない。

この地を得るのは益か不利益か判断しがたい
あやふやな益を求めるために兵糧や兵を消耗させる、それこそ無駄というものだ。
内心を言えば、本当の所を言えばあきらめて撤退してしまいたい。

でも撤退は負けだ。自身の沽券にかかわることだ。
だから、やすやす撤退するのも面白くない。

悩む曹操の元に、側近が晩餐を運んできた。

本日のメニューは鶏の汁物。
汁の中には鶏の骨が入っていた。
曹操は鶏のあばら骨をつまみ上げて「鶏肋」とつぶやいた。

漢中の地も鶏のあばら骨のようなものだ。
食べられる肉も付いていないが、さりとて捨てるのも惜しい。

そこへ偶然に曹操の部下・夏侯惇が入ってきた。
彼は曹操のつぶやき「鶏肋」を耳にした。
そして深読みした。

この言葉には重要な含みがあるのではないか…
しかし夏侯惇は意味を計りかねた。

そこで、やはり曹操の側近で頭脳明晰と伝わる楊修に相談した。

楊修は即座に推理した。

「鶏のあばらは肉が無い、食べても益がないが、捨てるのも惜しい。殿は『撤退したい』と考えておられるのです」

楊修の名推理?は全軍に通達され、撤兵の準備が成された。

驚いたのは曹操だった。
自分の指図もなしに兵が撤退に浮足立っている。
それが楊修の指図だと知った曹操は激怒した。

頭脳明晰な楊修は、曹操の意図を察するのに巧みだった。
あまりにも巧みだった。

だから曹操は内心で楊修を恐れてもいた。
自分の感情をすべて見透かされている…

そこへもってきて苦戦の最中。
自分の機嫌が悪いことも見透かしているであろうに、勝手に兵をうごかした…

曹操は「軍規を乱した」咎で楊修を即座に斬り捨て、撤兵を撤回。
無理に戦線を長引かせた
だが、結局のところは敗退。
楊修の読みは本当に当たっていたのだ。

曹操は深く反省し、楊修を丁重に弔ったという。

この逸話は「処世術」としても有名である。
上司の意志を察することは大切なことだ。
だがあまりに巧みなら、上司に危険視されてしまう。
自分の考えをすべて見透かされている、と。

曹操の「鶏肋」の味とは?
古代中国のレシピから推理

さて、ここからようやく本題。
曹操が食べた「鶏肋」とは、どのような料理だったのか。

三国志演義にはただ「鶏湯」(鶏のスープ)とあるだけ。
他の具材や味付けなどは記されていない。

三国志』は歴史書
三国志演義』は遥か後の明王朝時代(西暦1500年代)に書かれた冒険活劇である。
いずれもレシピブックグルメ本の類ではないので。

 実際のところ、曹操が食べていた鶏料理は何なのだろうか。
ここで推理の糸口になるのが『斉民要術』という書物だ。

三国志から300年ほど後の西暦530年頃。当時、中国の北半分を支配していた「北魏」の豪族が、自身が住まう現在の山東半島の地をベースとして記した農書(農業技術書)だ。

農書ゆえ記述の半分は穀物や野菜、果樹の栽培法、家畜の飼育法だが、もう半分は「料理のレシピ」。「現存最古の中華料理レシピ本」としてまことにありがたい本だ。

その記述から、「鶏料理」「あばら骨が入っていそうな料理」「鶏のスープ料理」を探ってみる。すると以下のものが該当する。

※当時の「一升」「一合」「一斗」は、いずれも現在の十分の一ほどの量です。

雞羹(ニワトリのあつもの)
ニワトリ1羽はさばいて肉と骨を分離する。骨は叩いたうえで肉と共に煮る。骨を取り除き、アサツキ2升、ナツメ30個を併せて煮る。完成量は1斗5升。

蒸鶏(ニワトリの蒸し物)
肥えたニワトリ1羽をきれいに調理する。豚肉1斤、香りのよい豆豉1斤、食塩5合、白ネギ一つかみ、シソの葉を厚さ1寸分、これらを豆豉汁3升に加え、食塩を加えて蒸し器に入れて蒸す。

 しるだきどり
一名、缹雞(蒸し焼き鶏)。それぞれ丸ごとの塩豉と白ネギ、弱火であぶった乾燥シソ、(生葉ならばそのまま使用)を丸ごとの鶏肉と共に水煮する。鶏とネギを汁から出し、汁を濾して澄ませる。鶏肉は1寸四方に刻んで盛り付け、温かい汁を注ぐ。鶏肉が冷たければ蒸しなおしてから盛り付ける。

あるいはネギ、シソ、塩豉を鶏肉と共によく煮る。煮えたところで盛り付けて汁をかけ、葱およびシソを上に載せる。ネギは千切りが良い。
 

 「鶏の汁物」

「あばら骨が簡単に取り出せる」

これらの特徴を考えたならば、曹操の鶏料理は骨付き鶏肉をじっくり煮込んだ料理…「腤雞 しるだきどり」の今一つの調理法

あるいはネギ、シソ、塩豉を鶏肉と共によく煮る。煮えたところで盛り付けて汁をかけ、葱およびシソを上に載せる。ネギは千切りが良い。
 
あたりがふさわしいと勝手に解釈する

ここで問題なのは「」なる素材である。参考文献「斉民要術」には「豉」の仕込み方も綴られている。それによれば

・まず仕込み部屋を用意する。立地は日当たりの悪い場所が良い。屋根は瓦葺ではなく、草葺きが良い。土間を深く掘り込み、壁は土で厚く塗り、出入り口は小さくする。

・大量の豆を指で潰せるほどの柔らかさに煮て、仕込み部屋の土間に積み上げる。内部から蓄熱してくるので、適宜切り返す。豆にカビが立ったら、戸口をふさいで部屋を完全に密封する。

・3日後に部屋を開いて豆を運び出し、笊で振るってカビを落とし、豆を水洗いして完全にカビを落とす。その間に仕込み部屋の床に藁を60センチほどの厚さに敷き詰め、洗った豆を積んで足で踏みしめる。夏なら10日、冬なら15日で完成。仕込みで大切なのは熱を保つこと。あらかじめ土間で火を焚いて床を温めておくのが望ましい

 

豉は大豆の発酵食品であり、塩は使わない。仕込みには保温が大事。
豆麹か納豆のようなものだろうか。
そして原文には「塩豉」の文字。

これは「塩を加えて発酵させた豉」か、「完成品の豉(塩なし)に塩を加えたもの」か。
そのあたりは1500年の時代の流れに飲み込まれて釈然としない。

なお三国志の時代は西暦200年代、斉民要術の成立は西暦530年頃。
時代的に300年以上の差があるが、すでに紀元前、孔子の時代から「醤」のような醗酵性調味料の記述があるので、三国志時代の料理も斉民要術のレシピ同様、「醤」や「豉」のような醗酵性調味料で味付けされていたことは確実である。

とりあえず、以下の素材を用意する

・丸鶏

・ネギ

・シソ

 

 

肝心の「」は、粒状のものをスーパーで購入。

三国の覇者の食膳係でさえ入手に腐心した食材が、簡単に手に入る。
現代は誠に便利だ。
豆豉、ためしに一粒つまめば、「塩辛いチョコレート」のような風味。
色からの先入観ではなく、実際にそんな味がするのである。

 

まず鶏肉を煮る。

 

丸鶏をまるごと鍋に納める。
水をヒタヒタに注ぎ、原文通りにネギと共に弱火で煮る。
沸騰したらアクを抜き、蓋をしてそのまま弱火で1時間。

 

しっかり煮えて、竹串がスッと通る。

ここで少量の塩、並びに豆豉を加えて味付け。刻んだシソの葉も加えてさらに煮る。

 

透明な鶏の汁が、豆豉で深淵なチョコレート色に染まる。

 

とりあえず、出来上がり。

 

丸鶏を切り分け盛り付ける。

曹操のような覇者の食膳ならば、料理係は腿か胸肉を率先的に盛り付けたであろう。
だが今回は「鶏肋」がミソだからして、
大切なのはあばら骨。

 

味は基本的に淡白である。
出汁もスープストックも入らない、鶏肉自身からのうま味成分。
だが現代的に鶏舎で大量飼いの丸鶏だからして肥満気味、汁にはかなりの脂が混じる。

曹操の時代ならば鶏は平飼いが当たり前、穀物の餌以外に自身で虫をついばむ。適度な運動で脂肪も削がれた筋肉質でプリプリの肉質だったのであろうか。

汁に浮く脂の玉を掬って取り除かなかったのが多少悔やまれた。

脂気を意識しなけば薄味。
薄味の中に豆豉の微妙なコクが混じる。
単なる塩味、あるいは味噌煮とも醤油味とも異なる、素朴というにはいささか野趣のある香気が喉に香る。

 

さて肝心のあばら骨。

あばら骨同士はかすかな筋肉組織で連結されているが、数回しゃぶれば肉は削がれてバラバラになる。

 

まさに鶏肋
捨てるには惜しいが、さりとて貴重ともいいかねる。

もしも曹操のつぶやきが
「鶏頸」…鶏の頸の骨だったら?

今回の鶏肋スープを作って食べての感想。
曹操のつぶやきが「鶏頸」でなくてよかった。

鶏の首
表面の筋肉組織をはぎ取れば中には鳥の頸骨が現れる。
太い神経で連動されたそれは複雑に入り組みつつも、内部にはいささかの肉片がついている。

鶏肋はしゃぶればすぐさま肉が採れる。
頸骨、鶏頸はしゃぶっても肉が採れない。

だが諦めるのはもの足らず、つま楊枝でほじり上げたくなる。
食事の時間も忘れて肉ほじりにうつつを抜かす。

仮に曹操のつぶやきが「鶏頸」であったならば
楊脩は主君の意を汲み取ることが出来ただろうか。

プロフィール
フリーライター
角田陽一
1974年、北海道生まれ。2004年よりフリーライター。アウトドア、グルメ、北海道の歴史文化を中心に執筆中。著書に『図解アイヌ』(新紀元社 2018年)。執筆協力に『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』(宝島社 2019年)、『アイヌの真実』(ベストセラーズ 2020年)など。現在、歴史系の月刊誌『時空旅人』『男の隠れ家』で記事執筆中。

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP