「いつもの人です。ありがとう」
早いもので僕がコピーライターになってからもう35年以上経ちました。子どもの頃、毎週欠かさず見ていたアニメ「ど根性ガエル(吉沢やすみ作)」に出てくるベテラン教師町田先生の決め台詞「教師生活25年、こんな経験したことがない!」を10年も上回るなんて、とんでもなくジジイになったもんです。あー、あのときもそう思いました。約20年前。バカボンのパパと同じ歳(41歳)になったときに、とんでもなくオッサンになったもんだと人生の悲哀を一気に感じました。バカボンのパパにはバカボンもハジメちゃんもママもいるのに僕にはいません。
そもそも僕はなぜコピーライターになったのでしょう。一言でいうとブームの影響です。
Z世代やα世代のみなさんに説明しても誰も信じてくれないでしょうが、その昔1980年代、僕たちが新人類と呼ばれていた頃にコピーライターブームというのが本当にあったのです。「ザ・コピーライターズ(誠文堂新光社)」という雑誌(※写真①)が専門書のコーナーではなく「ポパイ」や「ブルータス」と一緒に平積みされていたり、様々なメディアでコピーライターの特集がされました。
写真①
17歳。僕は福岡県立糸島高校に通っていました。まさに今、NHKの朝ドラ「おむすび」の舞台の糸島です。部活動は新聞部。2年生のときです。取材記事を書いて先輩にチェックしてもらうために見せると「門田は記事はともかく、見出しはうまかけん、いま流行りのコピーライターとかになるといいっちゃなかとね」と言われ、決してほめられてはないなと思いつつそんなに悪い気はしなくてそれからコピーライターに興味を持ったのです。当時はスマホはもちろんネットも皆無の時代。どうやって調べたのか、たぶん新聞広告で見つけた地元の放送局(KBC九州朝日放送)が主催する「プロを目指すコピーライター養成講座」に通い始めました。毎週土曜日の15時半から。当時の土曜日はまだ会社も学校も半ドンでした。お昼の12時25分に授業が終わって掃除とホームルームをして売店でパンとジョアを購入。それを部室で食べてから学校を出るのが14時くらい。そこからバスで(今は地下鉄が延伸されて便利です)1時間以上かけて福岡の中心地天神へ。講座は15時半から2時間。講師は地元の現役のコピーライターで博報堂の方が多かったです。講座生は2~30人くらい。転職希望の社会人と大学生が多くプロも数人通っていました。平均年齢28歳くらいでしょうか。
その中で学ラン姿で通う高校生は目立ちます。可愛がられました。
毎週講座終了後、人気の講師を引っ張って数人でKBC横の喫茶店「ココリコ」で居残り授業。ここでは業界の裏話も聞けて青い春の僕には刺激的で毎週土曜日が待ち遠しくなりました。さらにココリコの後にはよく中洲へ連れていってもらいました。もうはるか昔に時効ですが、今じゃ絶対NG。昭和にコンプライアンスがあったら僕はコピーライターになっていたのでしょうか。中洲のママたちから学ランの僕は散々からかわれながら、やがて大人の年齢に。あのときのあの講座から10人近くがプロになり今でも数人とは付き合いがあります。全員ジジイとババアですが、飲むとあの日が蘇ります。時はだいぶ流れましたが、僕はというと相変わらずでバカボンもハジメちゃんもママもいません。この分じゃ、部屋で倒れてもきっと数日は誰も気が付きません。孤独死確定と思っていた矢先。
昨日のこと。週に7回以上(一日に2回行く日も多い)は通うご近所のセブンイレブンで会計を済まそうとしたら、奥からレジとは別の店員さんが小走りでやってきて「お客さま、ごめんなさい。これを」と言って小さなビニール袋に入った小銭343円(※写真②)を手渡されました。
写真②
「何ですか、これ?」と尋ねると2日前の僕の買い物の代金を余計に取ってしまったとのこと。店員さんの日本語がたどたどしいこともあって、まるでピンと来ません。この数年、コンビニでの決済は全てキャッシュレスにしているからかもですが、ほんとに払い過ぎたのでしょうか。そもそもなぜ僕だとわかったのだろうと首を傾げたときに店員さんの掌にあったメモ用紙がチラリと見えたのです。そこには「返金343円 いつもの男の人 50代 帽子 めがね黄色」と書かれていました。あ~なるほど、納得。それは僕です。意外なところに僕のことをちゃんと(?)見ていてくれる人がいたと思ったらうれしくて、さらに50代と若く見られたことで気分も高まり、少し泣きながら帰宅しました。
ところで、アニメの登場人物で今の僕と同じ歳を調べたらねずみ男だった話はまたの機会に。
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