テレパシー ――悪用するまじ。

番長プロデューサーの世直しコラムVol.9
番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光

仕事をしていて思うことがあります。それは、「人に自分の考えを伝えるのは難しい」。

日本語は難しい言語ですね。閉鎖的な土地で熟成と洗練を繰り返し、コミュニケーションの手段として、他人と対立したり交渉したり攻撃したりという概念をなるべく取り払おうとした言語なのではないか。僕はそう思ってます。

はっきり物を言うことを嫌うし、言ったことをそのまま受け取ったら実は意味が違ったりする。話の流れや会話のニュアンス、声のトーンや相手の格、その日の天気、自分との関係やなんやかんや、いろんな要因の中からこの人の言っているのはこういうことだと汲み取って理解しなければならない。腹芸。空気を読め。みなまで言うな、みなまで言わすな。

高度に共通化された情報、つまりみんな知ってなきゃいかんことが数多くあって、はっきり具体的に言わなくても、なんの話なのか理解できるようになっている。なんとなくだけど。

日本語は日本人にだけ通じるテレパシーです。ほとんどの日本人はテレパシーでコミュニケートしている。

たとえば、会社で「飲みに行こうぜ」って部下を誘ったときに「最近、肝臓の調子がよくないんですよ」という答えが返って来たとします。日本人にはごく普通のやりとりですね。でも外国語に翻訳できるでしょうか?肝臓の調子の前に、「本当は行きたいのですが、行けないのです」っていう一文が入っていて、それをテレパシーで送っているわけですね。その中にも、本音は「行きたくありません」「めんどくせえから、断りたい」という気持ちが含まれている。なんともはや複雑。はっきり否定の意思表示をすることは失礼であるという感情が、そうさせるんでしょう。そんな会話ばっかりしている気がします。

僕は子供の頃から「裸の王様」に「何にも着てねえじゃん」と叫ぶような子供だったのでずいぶん痛い目にあいました。テレパシーは伝わるけど無視するような意地悪な子供だったのです。面倒くさかったからです。そういうのが。大人になったとはいえ、根本は変わらないので、はっきり言い過ぎて失敗することがあります。今でも。

仕事の会話の途中に、曖昧なことを言う奴に腹を立てて怒ってしまうことも多々あります。 「何を言ってるのかさっぱり解らん。お前の言ったことを言ったとおりにこの場で紙に書いてみろ。文章としてお前の意見を読んだときに、お前自身が人に物を伝えられる文章だと思えるかが知りたいぜ」って感じ。

人に自分の考えを伝えるのは難しい。人が自分に考えを伝えるのも難しそうだ。しかし、どうやら問題は、言語の性質だけじゃなさそうです。

昔の人は、確固たる信念もやりたいことも言いたいこともはっきり頭の中にあった上で、あえて、オブラートに包んで人に伝えようとするときと、はっきり言い切っちゃうときと使い分けていたんじゃなかろうか?

最近の日本人は、他人に何かを伝えることへの恐れも礼儀もなく、どういう言葉で伝えたら効果的かという作戦もなく、頭の中の整理がつかないまま、曖昧な気分ばっかり人に伝えて、なんとなく解ってもらえているような、通じているような気分になっている……。つまり、無神経。言葉の曖昧さに甘えて、頭の中も曖昧なまま他人と接しているような気がします。

言葉の曖昧さに甘えて、自分の失敗をごまかしの言葉の中に隠そうとしているようにも見える。潔さもない。とっつかまった政治家の記者会見なんて、その典型ですね。要はよく考えてないんじゃないの?ってことです。テレパシーの悪用。曖昧には、いい曖昧と悪い曖昧があります。悪い曖昧が蔓延している。

世の中がそうなってくると、さらに、裸の王様に出てくる子供はやりにくくて仕方がない。 曖昧な人の言うことを我慢して聞いてはみるが、ついつい頭にきて怒鳴っちゃう。「わかんねえ!」。「何が言いてえんだよ!お前」。

他人と相対するという概念がとっても希薄。他人と会話するときは他人と会話する準備をしてからこいよ。俺とあなたは違う人。同じことを考えている訳じゃありません。他人との関係性は、最初は対立からはじまるでしょ?ってことです。

そんなこと言ってる僕のような人間には、今は住みにくい世の中です。

Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)

プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。


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