東京の大地の麺料理「武蔵野うどん」

東京
フリーライター
youichi tsunoda
角田陽一

お江戸の蕎麦?東京ラーメン?
「東京都」の伝統麺料理
それが「武蔵野うどん」

東京伝統の麺料理、といえば何が連想されるだろうか
江戸以来の「粋」を包蔵した「蕎麦」
ソラシラソ ソラシラソラのチャルメラの調べに誘われて屋台に誘いこまれる、醤油味に細麺、ワカメにメンマの「東京ラーメン」

昭和中期以降に世界中から参入して混然化した世界各国の新参麺料理を除けばこのあたりか。

だが「東京」ではなく「東京都」に視線を広げれば、お江戸以来の伝統麺料理文化に行き当たる。
それこそ「武蔵野うどん

自家栽培の小麦粉で打ち
自家栽培の野菜を添える
それが武蔵野うどん

そもそも関東平野は、荒川や江戸川の流域を除けば水に乏しい台地だった。
だから徳川家康は江戸を城下町に改造するに当たり、現在の井の頭公園から水を引く神田上水を築いたが、50年後には人口増加で水不足、はるか多摩川から水を引く玉川上水の完成と相成る。

だが江戸市中はともかく、西方に延々と連なる武蔵野台地はやはり水に乏しい。だからこの辺りの農村の主要な作物は麦、大麦に小麦だった。そして農家の日常食は、精白した大麦を米と共に炊いた麦飯だった。これは江戸期でも、明治から大正期でも変わらない。

そして冠婚葬祭、あるいは正月に寄り合いなど「ハレ」の場では貴重な米の飯や餅も用意されただろうが、同時にハレの食事として親しまれたのは自家栽培の小麦で打つ「うどん」だった。

そもそもうどんを打つには、まず小麦を粉に挽かなければならない。そして粉を練って延し、端から細く切らなければならない。もろもろの手間がかかるうどんは、武蔵野地域の「ちょっとゼイタク」な食事だった。

明治大正期の日本全国の食文化を記した農文協『日本の食生活全集』のうち、『東京の食事』『埼玉の食事』には、武蔵野台地各地のうどんの食文化が載る。

冠婚葬祭やお盆に正月。各家庭でうどんを打つ。

特徴的なのは食べ方だ。
太めに打ったうどんを、あらかじめネギなどを入れた温かい汁につけて食べる。讃岐のような「かけ」「ぶっかけ」ではなく、「つけ汁うどん」だ。

トッピングは「かて」と呼ばれる具材。夏はナスにサヤインゲン、秋はカボチャ、冬は大根にホウレンソウと、季節の野菜を茹でたものを添える。

自家栽培の小麦粉で打った麺
家庭菜園の野菜の具

まさに武蔵野の大地の味だ。

店舗で味わう
ワシワシ系の極太麺
それが武蔵野うどん

この「武蔵野うどん」。讃岐や浪速、あるいは博多うどんよりマイナーだ。
だが地元であるところの東京都多摩地域に埼玉県では、「武蔵野うどん」を名乗る店舗が散在し、いずれも人気を博している。

さる4月、神奈川県相模原市で出会った「肉うどん」。

相模原市だから「相模野うどん」というべきだろうか。
だが相模原も武蔵野台地と同様、かつては水が乏しく養蚕や畑作に糧を求めた地域。実際に農村の常食は麦飯、ハレ食はうどんだった。

シコシコツルツルではなく、しっかり歯ごたえのある極太麺。いわゆる「ワシワシ系」だ。
その麺を肉汁につけて食う。

肉汁うどんは牛肉や豚肉が手軽に手に入るようになった昭和中期以降のメニューだが、今では武蔵野うどんのスタンダードだ。

だがこの店舗では、定額を出せば「かて」と称される具材が一回のみ取り放題。季節の茹で野菜を「かて」としてトッピングする武蔵野うどんの伝統を、相模の地で守り抜く。

 

昭和百年、昭和の日の4月29日
八王子駅より北西に徒歩15分ほどの位置にある人気店。

有名人のサイン色紙が所狭しと並ぶ店舗の人気メニューは有名人プロデュースのピリ辛系つけ汁うどんらしいが、スタンダードに肉汁うどんを注文。

 

手打ちの極太ワシワシ系の麺。

噛みしめればしっかり小麦の香りを感じ取れる。存在感ある麺。
トッピングの「かて」はホウレンソウ。別メニューの天ぷら「チーズはんぺん」がサクッフワッと美味い。

武蔵野の大地に抱かれた大地の味
それが武蔵野うどん

プロフィール
フリーライター
角田陽一
1974年、北海道生まれ。2004年よりフリーライター。食文化やアウトドア、そして故郷である北海道の歴史文化をモチーフに執筆中。 著書に『図解アイヌ』(新紀元社)、執筆協力に『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』(宝島社)、『アイヌの真実』(ベストセラーズ)など。現在、雑誌『時空旅人』『男の隠れ家』で記事執筆中。

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