職種その他2021.02.17

地元に生かされて。自由な働き方で「地域貢献」の喜びを実感する毎日

Vol.48 仙台
サリダ・プランニングオフィス代表  求人広告プランナー/ライター
Eri Sato
佐藤 えり

東京の大学を卒業後、地元・宮城県へUターン。地元の出版・広告代理店の営業職を約12年経験。その後独立し、フリーランスとして求人広告を専門にプランナー、採用コンサルティング、ライター業務に邁進している佐藤えりさん。

地元企業の役に立ちながら自分らしい働き方ができるのは、地域の人たちの顔が見える環境だからこそ。「働く環境として今がベスト」と話す佐藤さんのお話から、地元・地域で働くやりがい、楽しさが見えてきました。

 

学生時代はアナウンサー志望。夢に近づくために学び、挑戦。そして挫折。

地元から東京に出てUターンした経緯について教えてください。

最初からお話しますと、宮城県登米市に生まれ高校卒業後は東京の大学へ。県内の大学に進めば、同級生の顔ぶれが決まってしまうし、将来は地元で働きたかったので、「今じゃないと地元を離れるタイミングがない」「大学くらいは東京に出て、都会暮らしを経験してみたい」と思ったからです。

大学を出たら、地元のローカルな情報を伝える仕事をしたいと思い、アナウンサーにしぼって就職活動をしました。「一生に一度、若い今しか挑戦できない」と、東京アナウンス学院にも通いました。正直なところ内心「こんな競争率じゃ、無理だろうな…」と思っていましたが。案の定、卒業後の就職先が決まらないまま、地元に戻ることになりました。

宮城県に戻ってからはどんなお仕事を?

そのときは放送局とコネクションを作るのもいいなという意味もあって、宮城に戻ってから地元放送局で1年くらいアルバイトをしました。報道カメラマンのアシスタント、要は荷物持ちです。

気難しいカメラマンに怒られながら重い荷物を持って、取材先について走り回っていました。それでも普段の生活ではいけないような場所に行けたり、有名人のインタビューを間近で聞けたり、とても刺激的で楽しかったです。

希望はマスコミの仕事で、編集業をしたかったのですが、当時は未経験者が採用してもらえるのは営業職のみでした。第二新卒として、初めて入社した会社では「育児情報誌」の広告営業。県内の産婦人科や小児科などのクリニックを回り「雑誌を置いてもらえませんか? 広告出しませんか?」と飛び込み営業をしていました。

その後、タウン情報誌、飲食店関係、観光業と、24歳から12年間、数社にわたり広告営業職を続けました。

 

転職4回、何度も壁を乗り越え「独立のきっかけ」となる“求人広告”と出会う

 

12年間の営業職で大変だったこと、得たことは何でしょうか。

「取材してくれてうれしい」と喜ばれる仕事がしたかったのに、営業職という肩書きだけで、毛虫を見るような目で見られ、邪見に扱われるのがとてもつらかったです。「ほかの仕事についたほうが楽だろうな」と毎日のように転職を考えていました。

とはいえ、人一倍の好奇心もあり、人に会うことが好きだったので、飛び込みの営業を続けることができました。

よく「営業は断られてから始まり」と言います。しかし最初から「見込みのあるお客さまを誰よりも早く探し出す」ことのほうが重要だという学びを得ました。

大変なこともあった営業職をどのようにして10年以上続けたのですか。

頑張ろうと思ってもやる気が出ないなど、メンタル不調に何度も苦しみました。飲食店関係の広告営業は、自腹で飲みに行くのも営業の一環でした。私はお酒が飲める方だから、夜中までも営業ができましたが、飲めないと大変だったと思います。

でも、がむしゃらに目標を追いかけて、ふと「こんなに頑張る意味はあるのかな、本当にお客さんのためになっているのだろうか」と、空しくなることがありました。

しかし、いくら環境を変えたところで“自分自身は変わらない”ことに気づき、目の前の課題から逃げずに、ひとつの会社に長く勤められるよう頑張ろうと思いました。マスコミ業界からは離れたくない想いは強かったです。

現在、主に取り扱っている求人広告にはいつ出会ったのですか?

4社目の会社にいたとき、東日本大震災が起きてマーケットが壊れてしまいました。私は31歳で、結婚、出産を考える時期。

「仙台で、責任が重くない仕事をしながら結婚生活をする」という理想はありましたが、数字が取れない、営業成績が伸びないままで終わりたくない。不完全燃焼のまま結婚して安定した生活を送ることができても、後悔するんじゃないかと思いました。

社内でも「最初は新人賞とか取るほど頑張ってたのに、どうしてこんなに伸び悩んでいるの」と目をつけられ、東京に出向するように言われました。

そこで、東京本社で一番業績が伸びている求人広告の代理店部門を希望したんです。求人という新しい部門で勉強したい、成長できる場に行くくらいの気持ちで新しい求人部門に飛び込みましたが、甘かったです。

毎日、缶詰になって企業の人事担当に電話をかけて、アポを取り続けました。電話をかけても、怒鳴られたり電話を切られたりして、1日に200本電話をかけて1本ようやくアポが取れるくらいでした。

ただアポが取れて会社に伺うと、だいたい3分の1の確率で契約をしてもらうことができました。努力はムダにならない、やればやっただけ結果は出る仕事だと実感したんです。

東京で求人広告の営業を3年くらいやるうちに、人手不足で求人広告が必要とされる世の中になりました。それまでと違って「困っているから助けてほしい、ぜひ話を聞きたい」とお客さまに喜ばれるようになり、求人広告に変えて良かったと思いましたね。

 

再び地元へ!求人広告プランナーとして独立、働く環境は今がベスト

サリダ・プランニングオフィス
https://www.salida-p-office.com/

会社を辞めて独立しようと思ったのはなぜですか。

東京出向はもともと2年の約束でした。仙台支社に戻ったら求人広告代理業の新規事業を立ち上げる話がありましたが、私の力不足もあり、実現には難しい状況でした。社内でできないのであれば、自分でやるしかないと思ったのです。

あとはフリーランスで、場所と時間を気にせず働きたかったというのもあります。仕事量も自分で決めて、好きな人と、好きな仕事だけをすることができるので、ストレスがありません。

3年目ですが、大きなトラブルやクレームもなく順調です。働く環境に関しては今の自分のスタイルがベストです。

現在の仕事内容を教えてください。

主な仕事は「福島求人支援チーム人材コーディネーター」という官民合同で取り組む経産省委託事業で、原発事故で避難指示を受けた福島県の被災12市町村の事業者の人手不足解消をお手伝いしています。

求人広告を作ったり、人材確保のための広告のノウハウ、面接のやり方を伝えたり、内定者フォローなどをサポートしています。

また、求人広告の代理営業をしています。メディアの広告枠をクライアントに売って手数料を得る、二次代理店のような立場です。また、求人広告専門のライティング、ハローワークの求人票の代筆もしています。

仕事をするうえで心掛けていることは。

まずは当たり前のことをしっかりとやります。ライターとしては、時間厳守、下調べ、事前準備を大事にし、締め切りより少し早めに納品しています。誰に向けた記事かを意識して書きます。

1回の打ち合わせで納得がいかないときは、自らもう1度話を聞きに行くこともあります。どの仕事でも、関わる全ての人を大事に、良好な関係を保つようにしています。

仕事は1人でやっているわけではありません。お客さん、協力ブレーン、チームみんなといい関係を保つことは自分の仕事の仕上がりに直結するので、すごく気を遣います。

仕事にやりがいを感じるのはどんなときですか。

人材コーディネーターとして担当している南相馬市(みなみそうまし)はまだ閑散としています。でも広告を掲載し、写真やキャッチコピー、文言ひとつを変えるだけで、求職者は来てくれます。

そんなお客さまから、「採用が決まりました」「いい文章だった」「明日入社です、ありがとうございました」と感謝されること、間接的にでも採用に関わり、結果が出て、喜ばれるとやりがいを感じます。

この仕事をしなければ足を踏み入れることもなかった場所で、最初は人見知りをする方々も多く、今はコロナでリモートのやり取りですが、福島県では温かい人ばかりに出会って元気をもらっています。

 

宮城・仙台でのこれから

地元で独立して仕事をするメリットは何ですか。

人と知り合えば何人か共通の知り合いがいるくらい、何でもツーカーの地元で、信用を落としたら一気に広まります。ここでずっと仕事をしていくつもりなので、不義理なことは絶対にできない、お客さまを裏切れないという緊張感は常にあります。

けれども細心の注意を払って誠意を尽くせば、紹介だけで食べていけるのも地域ならでは。地元・宮城だから仕事ができる、周りの人に生かされていると感じます。

地元の好きなところはどんなところですか。

皆さんも言うように、人の良さですね。先日、コミュニティーFMの番組にゲストで呼ばれてお話をさせていただいて、その後に行ったバーのオーナーの紹介で、また別のラジオにゲストで出ることに。

そんなふうに人と人が紹介でつながり、したいことが実現しやすい規模や環境があります。

私は人生の半分以上を仙台市で過ごしましたが、高校卒業まで過ごした登米市は、2021年春スタートのNHK前期連続テレビ小説のロケ地に決まり、盛り上がっているようです。好きな場所は、カフェと書店が併設された多賀城市立図書館で、独立当初はよくそこで仕事をしていました。

東京から友達が来たら案内するのは松島と、知り合いのママがいるお店ですね。牛タンか刺身を、美味しい地酒とともに味わってもらいたいですね。

これからの目標を教えてください。

フリーランス向けのエージェントをしたいと考えています。フリーランスやブランクのある主婦などに、在宅でできる単発の仕事を斡旋(あっせん)したいです。

これまで、繁忙期だけ経理を手伝ってくれる人が欲しい、社内の雑務などを短期間手伝ってくれる人がいないか、といった相談が多くありました。

地元企業は、人材不足でも、未経験者を採用して育てるお金も時間もなく、教育環境も整っていないので、即戦力になる人を採用したいんです。職務経験があって今は仕事をしていない方に、プロジェクト単位で在宅のリモートワークを委託して2、3時間手伝ってもらうということなら、出来ると思います。

好きな言葉は「優れるな、異なれ」という言葉。中小企業が生き残るすべは勝つことではなく、人と違うことをすること。そして自分らしく働きたいと思っています。

今は個人事業主ですが、やりたいこと、業務内容をブラッシュアップして、今年中に法人化できたらと思っています。

粘り強く前向きな佐藤さん、最後に地元に限らず地方で頑張っているクリエイターにメッセージをお願いします。

クリエイターは独立しても、パソコン一つでできる仕事も多いですよね。場所や時間に捉われず幅広い働き方ができるので、やってみたい方には、まずおすすめしたいです。

営業も大切で、これに関しては能力やセンスよりも、人に声をかけてもらえる個性、人柄になることがチャンスにつながり、成長できます。そういう方がクリエイターを続けられるのでは、と思います。

取材日:1月7日 ライター:佐藤 由紀子

プロフィール
サリダ・プランニングオフィス代表  求人広告プランナー/ライター
佐藤 えり
宮城県登米市生まれ。高校卒業まで登米市で過ごし、東京の大学の文学部哲学科で哲学を学ぶ。卒業後はUターンし、宮城県仙台市の出版・広告代理店をはじめ4社に勤務。地元情報メディアを中心とした広告媒体の営業、求人広告のプランニングを経験。2017年11月に独立、サリダ・プランニングオフィス代表に。企業の人材採用や定着・採用力向上のサポートを行い、地域企業の発展、地元情報の発信に尽力している。

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