映画という祭りが終わると、虚しさしかない。祭りは一期一会。どこで封切ろうと結果がどうだろうとボクには無縁だった。

Vol.026
井筒和幸の Get It Up !
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸氏

ヒッチコック作品の回顧上映もやっていた当時の日比谷のみゆき座や旧新宿武蔵野館をメインに、たかがアイドルものの『晴れ、ときどき殺人』は『湯殿山麓呪い村』というミイラにまつわる推理劇の二本立てで、84年5月末のとてもさわやかな時節に公開され、配収が4億円近く出て、小ヒットだった。

 

勿論のこと、角川映画らしくカネをかけた宣伝体制で、初日土曜の昼間の大そうな舞台挨拶にも問答無用に駆り出されたわけだ。

 

確か、和田アキ子のワイドショーの生中継だったかな、そんなものまで利用して初日二日間の売り上げを煽って客を追い込む仕掛けだった。そんな生番組で何を一体、喋ったらいいのか。まあいいかと愛想をふりまいて、はい、お疲れさんで、本当に疲れただけだった。「現場はどうでした?楽しそうだったようですね」と「はい」としか答えようがなかったことだけを覚えている。それ以来、ボクは愛想と恰好だけの舞台挨拶は嫌になって、そのまま嫌ってきた。

 

『晴れ、――』なんて土台、取ってつけたウソの物語だし、教えるほどのテーマやアカデミックな撮影芸術談はなかったし、ボクより歳が一回り上の元トリオ・ザ・スカイラインの小島三児さんと、九十九一さんのウソらしい刑事コンビの顔が二つ並ぶと面白かったぐらいだ。過去に自分の作った一般映画はわずか数本だし、現場で頭が割れそうになる前に抗うつ剤を飲んで朦朧としながら撮った話もそうだが、自分のしでかしたことを他人事みたいに笑って語れるほど、まだ人間が出来てはいなかったからだ。

 

不眠不休でロクに飯も食えず、3週間余りで『ガキ帝国』を撮った時よりは余裕でしたと客に聞かせても、それこそ虚しいだけだし、誰一人と知らないピンク映画時代の凄まじさを懐かしんで伝える場でもなかった。当時の武蔵野館は座席数が400席近くあるように思ったが、そこが、『イージー・ライダー』(70)や『真夜中のカーボーイ』(69)など知らない十代、二十代の若い客で満員御礼になろうと、ただ虚しさだけが残って愉しくなれなかった。東映の宣伝課長に連れられて行った銀座のバーのホステス君らが、昼間から、高価そうな大きな花束を抱えて、舞台の前に歩いてきて差し出してくれたことぐらいかな、和ませてくれたのは。「嵐に花のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」らしい、そんな刹那な思い出だけが残っている。

 

たしか、ボクが貰った監督料は300万円だったか。でも、監督料が配給収入に比例して増えるわけではない。そんな契約はいまだ、ボクは結んだ験しもない。(そして、この連載で前回、日活撮影所長の樋口さんから、次の監督依頼の電話がかかってきて、六本木に呼び出されることになったと書いたが、それは実はその年の秋の終わりのこと。その前に、もうひと踏ん張りしなければならないことが舞い込んできたのだ。

 

『晴れ、――』が終わるなり、ディレクターズ・カンパニーという相米慎二や根岸吉太郎や長谷川和彦やボクが所属する制作会社の“しのぎ”仕事の依頼だった。日本中にレンタルビデオ店があって、大方の劇場映画のビデオパッケージが一本12600円で平気で売られている時代だ。当社のプロデューサーはレーザーディスク用の5千万円ほどのバジェットのパフォーマンス物をすぐに作って売りたがっていた。

 

「イヅっちゃんは吉本興業と親しいよね。吉本の誰かと伊武雅刀とか呼んで、可笑しなやつを作ってよ。コミカルで変なやつ、企画書いてくれるかな?」と軽いノリで言われたから、こっちも使われるままの身、「ビデオ撮りでいいなら、よっし、じゃ考えましょう」と軽く答えた。でも、さすがにどんなモノに仕上げたらいいのか現場も見えなかった。「でも、吉本なら、西川のりおさんと上方よしおコンビが一番やりやすいかな。紳助竜介は忙しいし、さんまなんてお呼びじゃないし、重役と相談したらどうですかな」と言い足した。

 

発案の通り、のりおよしおコンビがOKなら、企画アイデアも浮かびかかってきていた。10日間ほどか、若い仲間らとアイデアを出し合ううちに、「昔、アメリカのテレビ映画で『コンバット』って見たやろ。あの懐かしいテーマ音楽も巧く何小節かパクって、先ずは戦場を舞台にして、サンダース軍曹みたいな役を、のりおさんで、相手のナチスドイツの変な将校役を伊武さんで金髪にして、お互いが戦場漫才と戦場コントとかして見せるとか?」と、思いつくまま言い合うと企画も動き出し、東京からは友人の劇作家・高取英さん(実は岸和田の出身、今は故人)、売り出し中だった放送作家の秋元康さん、大阪から広告代理店にいた中島らもなどを赤坂の古い旅館に一人ずつ招いて、各々にそれぞれのパート脚本を任せることにした。

 

コンバットの“戦場漫才”は御当人たちの漫才ネタに任せるとして、高取には名作『伊豆の踊子』のエロパロディー、秋元には『ゴッドファーザー』香港やくざドタバタ、中島らもには『性科学教育映画』的なものと喜劇『エクソシスト』と喜劇『忠臣蔵』などを思いのまま書いてもらうことで(秋元さんは多忙過ぎて退出したが)、各自なりにぶっ飛んだプロット(粗稿脚本)が上がるのを待つことにした。

まさか、こんなやっつけ仕事が虚しさを挽回させてくれるとは思わなかった。このビデオワークの制作裏話は来月にまた…。

 

(続く)

プロフィール
井筒和幸の Get It Up !
井筒 和幸氏
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。

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