お客が昂奮して鼻血を出すようなものは、一般の映画館よりテント小屋の方がお似合いかも知れなかった。
1981年の3月、我らの『ガキ帝国』は、大阪と京都、神戸の洋画興行チェーン4館での公開に引き続き、札幌でも封切られた。若手人気漫才コンビの紳助竜介が主演だったし、若い観客が来るのを見越しての関西先行だった。案の上、関西は4館ともまあまあの盛況で、客層は彼らのファンだけでなく、むしろ、老若男女の一般客が多いと聞いて、ちょっと嬉しかった。
封切り直後に、大手新聞の社会面に、“大阪ミナミで映画『ガキ帝国』を見ての帰り”(というような小見出しだったか?)、若い客が映画のワンシーンを真似たのか、カツアゲ(恐喝)事件で捕まった記事が載ったりした。先輩のスタッフが「こんなアホなニュースでまた客が入るんちゃうかな」と失笑していた。京都の映画館では昂奮した学生客が鼻血を流したとか、便所で言い合いになったとか、そんな話も耳にした。スクリーンの影響力は凄いもんだと改めて思った。かつて、『仁義なき戦い』(73年)を観た後、菅原文太が肩を斜めに落として歩く恰好を真似て映画館を出る大人たちを見て感心したように。
6月になり、東京での上映も始まったが、一般の映画館ではなく、渋谷の外れの特設テント劇場だった。そのテント小屋は前年にロングラン興行した鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』(23年)で東京ではちょっと有名になったアートな場所だったが、ボクは一般の映画館にかけて欲しかった。でも、配給会社とプロデューサーの決めたことは仕方ないし、お客が昂奮して鼻血を出すようなものは、一般の映画館よりもテント小屋の方がお似合いかも知れなかった。
スクリーンから伝わる臨場感についてだが、先月も書いたが、もう一度、今の映画界に提言したい。映画は、フィルムで撮る方が画面のインパクトは断然、違う。作り手の気持ちの伝わり方も違うはずだ。ネガフィルムのハロゲン化銀の感光素子は0.05~3ミクロンの微粒子。人の眼の視細胞も1~5ミクロンでほぼ同じ細かさで光を感じ取る。デジタル素子の大きさや数とは訳が違う。フィルムでは紅潮した人の顏も冷たい表情も、その風情、質感は見た目に近いし、そこにいる臨場感、その空気感も違って当然だ。デジタル音も同じだ。川のせせらぎの音も耳触りが悪くなった。俳優の音声も言い方の所為でなく、丸みがなくて耳に残らない。そんなネット配信の風合いのない映像ばかりが眼につく。「フィルム」の世界に戻ってほしい。
『ガキ帝国』が公開されていた頃、ブライアン・デ・パルマ監督の『殺しのドレス』(81年)を観ている。彼のファンは封切りを待ってきたのだ。「さすが、デ・パルマ、鮮やかな画面。久々のアンジー・ディキンソンは妖しく色っぽい。やっぱり、デ・パルマはエロスを撮るべきだ!ナンシー・アレンもエロチック」と当時のメモ帳にある。原題は「Ⅾressed to Kill」、“悩殺するような服装をする”という意味らしいが、犯人は女装してセクシーな女を憎んで殺す性的倒錯者の精神科医だったという話だ。最初に殺されたのが、アンディーだ。彼女は、中学時代に観たジョン・ブアマン監督の『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(68年)というハードボイルドな悪党もので、主演のリー・マービン扮する無頼漢の妻なのに裏切ってしまう女を色っぽく演じ、少年の心をドキドキさせた。『殺しのドレス』(81)も彼女が出ていたから見たのかもだ。冒頭から煽情的な展開で、またもやアンジーにドキドキした。デ・パルマからはサスペンスの盛り上げ方やセクシーな撮り方を学んだように思う。『愛のメモリー』(78年)もデ・パルマ節が炸裂していた。実業家が昔に誘拐されて死んだ愛妻と瓜二つの女と出逢って結婚したらまたその妻も誘拐されるという、『タクシードライバー』(76年)の脚本家ポール・シュレイダーが書いた、よく出来たミステリーだ。『ミッドナイトクロス』(82年)も面白かった。映画の音響効果マンが偶然、自動車事故現場の音を録音したテープに銃声も入っていたことから殺人事件の真相を追う話だ。デパルマ独特のキャメラワークも見ものだった。『スカーフェイス』(83年)まで、彼の作品は見習うべきことが多く、反面教師でもあった。
5月の半ば頃だったか。西村望の「水の縄」(立風書房刊)のような、田舎の若者二人組が行き当たりばったりの犯罪を続ける物語を模索していた時だ。
東映の製作部から電話があった。「あー、〇〇だけど、今から本部長に替わるから。アンタに頼みたいそうよ」と。そして、「……あのさぁ、東映の鈴木だけど、君の『ガキ帝国』というシャシン、あれを札幌で見たんだわ。乱闘ばっかりでちょっと何を喋ってるか判らないとこもあって尺も長いが、勢いはあったよ。明日、うちの銀座の本社まで来れるか?……あのさ、まあいいや、明日2時に大丈夫だな?」と如何にも東京帝国大卒の東映の重役らしい言い方だった。
ボクは「はい、伺います」と答えた。何の原作だか知らないが、一本撮ってみろという申入れのようだった。まるで喧嘩を売られているようで、電話を切るや、ボクは武者震いしたのを憶えている。
(続く)
≪登場した作品詳細≫
『仁義なき戦い』(73年)
監督:深作欣二
原作:飯干晃一
脚本:笠原和夫
出演:菅原文太、松方弘樹、金子信雄
『ツィゴイネルワイゼン』(23年)
監督:鈴木清順
原作:内田百間
脚本:田中陽造
出演:藤田敏八、原田芳雄、大谷直子
『殺しのドレス』(81年)
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:ブライアン・デ・パルマ
出演:マイケル・ケイン、ナンシー・アレン、キース・ゴードン
『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(68年)
監督:ジョン・ブアマン
脚色:アレクサンダー・ジェイコブス、デイヴィッド・ニューハウス、レイフ・ニューハウス
原作:リチャード・スターク
出演:リー・マービン、アンジー・ディキンソン、キーナン・ウィン
『愛のメモリー』(78年)
監督:ブライアン・デ・パルマ
製作:ジョージ・リットー、ハリー・N・ブラム
原作:ポール・シュレイダー ブライアン・デ・パルマ
出演:クリフ・ロバートソン、ジョン・リスゴー、ジュヌビエーブ・ビジョルド
『タクシードライバー』(76年)
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ポール・シュレイダー
出演:ロバート・デ・ニーロ、ジョディ・フォスター、アルバート・ブルックス
『ミッドナイトクロス』(82年)
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:ブライアン・デ・パルマ
出演:ジョン・トラボルタ、ジョン・リスゴー、デニス・フランツ
『スカーフェイス』(84年)
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:オリバー・ストーン
製作:マーティン・ブレグマン
出演:アル・パチーノ、ミシェル・ファイファー、F・マーレイ・エイブラハム
『ガキ帝国・悪たれ戦争』(81年)
監督・原案:井筒和幸
脚本・助監督:西岡琢也,平山秀之
出演:島田紳助, 松本竜介
▶出典:映画.com より引用
※()内は日本での映画公開年。
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■鳥越アズーリFM「井筒和幸の無頼日記」(毎週日曜13:00〜13:50 生放送中) https://azzurri-fm.com/program/index.php?program_id=302
■欲望の昭和を生きたヤクザたちを描く『無頼』はNetflix、Amazonで配信中。
■出身地 奈良県
奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している
■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw
■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
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