「肩ヒジ張らずにやればいいじゃないですか。たかがアイドル映画、されど映画。監督の名を売って下さい」

Vol.021
井筒和幸の Get It Up !
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

全国の茶の間のテレビに、朝、昼、晩と流れまくる角川映画の15秒宣伝スポットは、隣の家の飼い犬でも覚えてしまいそうだった。何億円だか分からないが、今までの常識を超えた破格の宣伝費を投入しまくって、角川映画が自前の芸能事務所で育てているアイドル娘たちを主演にはらせて送り出してきた「セーラー服と機関銃」や「探偵物語」や「時をかける少女」や「里見八犬伝」……。60年代末期から70年代のアメリカンニューシネマの洗礼を受けた映画ファンたちにはソッポを向かれようとも、それらはかなりの配給収入を稼いでいた。でも、どう見ても現実離れしてそうな“妄想”の物語は、ボクも実は何ひとつロクに見たことがなかったのだ。

 

「そんな人間に、角川マークを撮らせてもいいんですか?」と、ボクは、オファーしてきた角川の番頭プロデューサーに会うなり聞き直した。すると、プロデューサーはあっさり答えた。「普通、大方の監督たちもウチの映画なんか、まともに見てませんよ。でも、いいんですよ。ウチのアイドル娘をしっかり撮ってくれたらそれで。2年前に、うちの社長が(自分で)やらなくてもいいのに監督した『汚れた英雄』と抱き合わせだった、『伊賀忍法帖』で真田広之の相手役で出した、まだ半玉にもいかないワタナベノリコって三番手の娘を、ひとつ鍛えてやって欲しいんですわ」と。

 

「いや、そのノリコというのも知らないんで…、大丈夫なんかなと」

「アイドルを売るのは我々なんで、監督はシャシン(作品)に集中してくれたらいいし、今晩、オーナーに会っても正直に言う必要ないですけど」と、さすがに映画界をかき回している角川の番頭プロデューサーらしく、明快だった。

 

 

プロデューサーと話してから、一緒に夜の銀座に出向いた。角川事務所がよく利用するクラブだと教えられ、角川社長が現れるまで「ブランデーでもどうですか」と言われるまま、待った。その番頭さんは「カントクには(薬師丸)ひろ子はやらせたくないんですよ。もう若手監督たちでしごかれまくって手垢もついてるし、もうファンも全国にいるし。この後は、『家族ゲーム』の森田(芳光)にサクっと任せようかなと」と先の予定まで教えてくれた。

 

「だから、井筒和幸には、ド新人をしごいてもらって」

「こっちは『みゆき』でお嬢ちゃんは懲り懲りなんだけど…」

「まあそう言わずに。肩ヒジ張らずにやればいいじゃないですか。たかがアイドル映画、されど映画。名を売って下さいよ」

その時のブランデーがどんな味だったかは思い出せないが、それでも、今夜は気ままに飲んでやるぞと決めたのは覚えている。

 

 

角川社長が御付きの助手と現れるや、早速に乾杯をして、社長は角川ノベル(ポケット版)をテーブルに置くや、話を切り出した。「『みゆき』は面白かった。今度はうちの赤川次郎のこれ、『晴れ、ときどき殺人』なんだ。タイトルがイイだろ。映画ってタイトルで決まんだよ。サスペンス、アンド ファンタジーってやつだな。まあ、読んでからでいいし返事くれたら」と、赤い鼻のその社長は企画に自信満々だった。

 

こうなったら逡巡している場合じゃない、ボクはすぐさま、「いや、読まなくてもやらせてもらいます。後でゆっくり読みます」と答えた。すると、社長は笑顔になって、「分った。じゃ頼むよ。好きなだけ飲んで。おいママ、寿司でも取ってあげて」と言うとそのまま別の席に消えていった。

 

何だろうが当たって砕けろ、料理してやるぞ。ボクにもいつの間にか度胸がついていた。それは飲み出したブランデーのお陰ではなく、22歳の時に向こう見ずな出来損ないの『性春の悶々』を作って以来、順風ならぬ逆風満帆の10年間の背中の荷物の所為だった。この夜、荷物を下ろすと心も弾んで、ママさんと業界のバカ話に興じた。

 

84年が明けると、角川での映画作りはオートメーション工場のように、何の悩みもなく進んだ。制作下請けプロのセントラル・アーツの代表、黒澤満プロデューサーに会いに行くと、黒澤さんも機嫌よく迎えてくれた。彼は、ボクが72年、19歳の頃、知人を頼って、多摩川べりの日活撮影所まで就職面接に出向いた折のそこの所長だった。

 

関西から出て来た青二才を、応接室の白いソファーに迎えてくれて、「そうか、大学卒の一般教養と英語力がないんだったらウチの演出部は無理なんだな。美術部なら明日からでも大丈夫だよ。ほら、今、表を通ったけど、セット用の植木運んでいった美術トラック、あの部は勉強になるよ、どうかな?」と真面目に応じてくれた重役だ。東京の映画界の威厳とその冷淡さに威圧されて、お礼の挨拶もしないまま大阪に引き返したのを思い出し、黒澤さんにその青二才を覚えてますかと聞いてみたら、「そうだったっけ? それは失礼しましたね」と笑われた。

 

そして、松田優作の『野獣死すべし』などの脚本家を担当させるからと紹介された。誰でもいいや、書けるなら書いてくれ、こっちは現場で待つだけだと。初めて気楽にやれそうな塩梅だった。

 

〈続く〉

プロフィール
井筒和幸の Get It Up !
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP