作りたい映画が作れなくても、オモロイ人らが蠢くテレビドラマも、ボクの人生に必要だった。映画よ、しばらく待っててくれという思いだった

Vol.005
井筒和幸の Get It Up ! 井筒 和幸 氏

それまで作っては配給会社に何とかコネで話をつけて買ってもらっては、またその金で作ってと、それを繰り返してきたものの、ボクのピンク映画ごときは、世間の箸にも棒にも引っかかりようもない、不道徳でハレンチでどうしようもなく虚無的でアナーキーで、見た後はただ遣る瀬無くさせてしまうだけの、社会には無用な掃き溜めのようなモノだ。柄にもなくそんな反省のようなことをしてしまうと、自分が嫌になって、無謀に遊び呆ける日々が半年ほど続いた。そんな1979年のある日だ。関西のテレビ局の制作部の知らない人から電話がきて、「今、大阪で売出し中の漫才師コンビらを一堂に使って、大阪らしいそんなドラマを作りたいんです。ちょっと局にお越し願えませんか」と突然に言われると、何か分からない妙な「ホルモン」が体中に湧いて、翌日、ボクはしおらしく、近鉄電車に乗って向かうのだった。 局のロビーラウンジで、少し年長のディレクターが「電話した制作の××です、どうも」と出迎えてくれ、横には、眼差しの鋭い先輩も同席していて、「吉本興業の制作部の、木村です」と名刺を差し出された。名刺も何も、それこそ学歴も勤め先も、貯金も所帯も地位も名誉も人徳もない、映画以外に何ひとつ趣味もない27歳の浪人がどのツラ提げてここにきたんだと、あの時、自分で自分を初めて恨んでいた。

※ 木村政雄(フリープロデューサー)1969年吉本興業株式会社入社。横山やすし・西川きよしのマネージャーを務めた後、漫才ブームのなか東京事務所を開設。吉本興業の全国展開を図る。

吉本のその眼の鋭い課長さんが、代わりに切り出した。「実は、何ヶ月か前に、ウチの難波会館ビルのホールであった、関西クリエーターというのが何人か順番に、大阪の未来がどうのこうのっていう講演で、ひとりだけオモロイこという人がいるなって、ちょっと立ち聞きしたのが、井筒さんの青春の主張みたいな話だったんですよ」と。ボクはまた有名会社の名刺を持つ何才か先輩たちのの前で恥じ入るしかなかった。見て取ってくれた木村さんが、「いや、井筒さんの、昔のミナミやキタの親不孝通りで、仕事もなく明日もなく喧嘩やカツアゲばかりに明け暮れて、繁華街を与太ってうろつく不良グループがいた話を映画化したい、というあのイメージはよく分かりましたよ。ボクが今33だし、ボクの世代かな・・・」と。

ボクが「ありがとうございます。でも、あれはただ夢の企画ですわ。他にいうことがないから喋ったんです」と弁解すると、 急に脇から、そのテレビディレクター氏が「それって、映画でないとあかんのんですか?」と。
「あかんことないけど、映画でしか成り立たないド不良話ですわ」とボクが抗うと、今度は横から、さらに眼光が鋭くなった木村さんが「映画は映画として置いといて、そんなヤンチャな若者たちの群像喜劇みたいなのをテレビでやれたらいいなと。勿論、うちで今、勢いついてきた紳助・竜介、のりおよしお、阪神巨人、ザ・ぼんちとか全員出したいし、そんなヤンキーやチンピラたちで大阪らしいギャグや持ちネタ満載の青春物語ができたらなって勝手なこと思ってます」と核心を話してくれた。二人はこのロクな履歴もない浪人のボクに、脚本を書けとお願いしてきたのだ。ボクは自分の理想の映画を棚上げにしてしまうのはツラかったけれど、妙なホルモン噴出で妙に嬉しくなり、「ぜひ、書いてみます」と快諾した。木村さんが「(笑福亭)仁鶴さんも、私は元マネージャーだし、やすしきよしもそうだし、何なら、やっさんに道頓堀川を競艇ボートで走り抜けさせますか。あと一人、もう一息の、あの明石家さんま君にも何か役作ってくれたら」と、ボクの眼を見て応じてくれた。
そうか、大阪のミナミやキタや天王寺を舞台にまさかの「テレビドラマ」を作るのかと改めて、感激した。「監督はボクにやらせて下さいね」とそのディレクターがニコニコしてつけ加えた。失礼ながら監督なんか誰だっていい。ようはオモロイ中身だ。オモロイ人物のオモロイ台詞だ。大阪らしいオモロイ話を作るんだ。人の心を読み取る眼を持つ木村さんが、「古い新喜劇じゃないオカシなヤツ、書いて下さい」と念を押した。ボクの頭にも妙なホルモンが駆けめぐった。帰宅して、久しぶりに母の夕ご飯を頂いて、机に向かった。パソコンはなかったが、400字詰め原稿用紙があれば十分、殴り書きができた。
吉本芸人大放出の「大阪物語・恋のかけら」は翌80年の3月、関テレ系の90分枠でオンエアされた。

井筒和幸(映画監督)KAZUYUKI IZUTSU

■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。


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