「ボクはそんな生ぬるいことを許すわけにはいかなかった。やっぱり、映画は監督が作るのだと、役者たちに思い知らせたかった。」

Vol.36
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

京都太秦へ単身赴任だ。

「どんな問題が起きようと、好きに暴れて、思いつくまま撮ってやれ。笑わせて泣ける話にしてやろうじゃないか。お宿(旅館)は撮影所の正門から30ⅿだし、所内はまあ“庭”みたいなもんだ。東映はスタッフの労働組合もあると聞いたし、今までのように夜中まで好き勝手に徹夜仕事ができるわけじゃないし、たまには祇園のネオン街にも出られるだろう。」

そう思うと、一遍に肩の荷も下りて、気も軽くなった。

 

6月下旬からのクランクインまで、ボクは、所内のスタッフルームと旅館と近くの呑み屋を、ノラ猫のように行き来した。

ほぼ毎日、誰かと酒を飲んでは、映画の話をした。これから撮る自分のじゃなく、観たアメリカ映画ばかりだった。フランシス・フォード・コッポラ監督の『コットンクラブ』はもう一つだったなとか。

『二代目はクリスチャン』のキャスティングは、撮影所の制作部が進めていた。神戸のテキヤ組の若い組長役には、角川の企画部から名前の上がっていた「ヒデキ感激!」の西城秀樹は却下されて、代わりに、岩城滉一に決められた。キャロルの元親衛隊で元暴走族上がりのやんちゃ俳優が、顔はヤクザ役に似合っていても、やくざな関西弁の現場でのアドリブは先ず期待できないし、主人公のシスター・今日子とオモロいかけ合いは無理でしょ、と、東映のプロデューサーたち(深作組の『里見八犬伝』の制作チーム)に食い下がってはみたが、所詮、メインキャスティングは角川の制作部が主導していたし、『人間の証明』の端役や倉本聰のTVドラマ『北の国から』の彼に決まったのだった。

ボクは『証明』しか映画で見ていなかったし、『北の国から』など雪国のぼそぼそ会話劇は趣味じゃなく一度も見ていなかったし、まったく判断つかなかった。プロデューサーの一人が「まあ、うまいこと乗せてやったってよ。ヒデキにしろ、どっこいどっこいやろうし」と、ボクを諦めさせた。こっちも別に誰かに拘っていたわけではないし、まさか、三浦友和でもあるまいし、まあ誰でも「おいでなはれ」だった。30才過ぎの役者らしい役者が思い浮かばなかっただけだ。

 

関西の若い組長のライバルとして、シスター・今日子に片思いする兵庫県警の刑事役は柄本明に決まって、まあ彼は舞台の喜劇俳優だし、この映画もリアリズムで迫る実録モノでもないし、なんかおかしな言い回しと間合いで、けったいな刑事をやってくれたらいいやと了解した。後日談になるが、柄本さんは、現場では本番直前テストではスタッフ一同をどっと笑わせるような、実にキテレツでマヌケな芝居を見せてくれるのだが、いざ、本番となるとさっきのテストの軽さがなくなって、間合いも違うものに変わってしまうことが多々あり、何十回とテイクを繰り返す羽目になった。柄本さんは、何度か、もう東京に帰らせてくれと演出部にこぼしていたようだった。

実際、柄本明さんの場面は特にギャグシーンばかりで、まじめな刑事らしい台詞や振る舞いはほとんどないシナリオだった。35歳の童貞にして実家のお寺の息子が結ばれ難く合わないカトリックの尼僧にプロポーズして、挙句にやくざに尼僧を盗られ、失恋し、でも最後は日本刀をふり回す尼僧の助太刀となって仇討ちに向かう、滅多にいない宇宙人と変わらないくらいの役なので、とても難しい役には違いなかった。リアルにしながらリアルでない、でも、人間らしい悲しみと喜びを背負っているなかなか男気のある奴というわけだ。

演じようがなかったのも確かだし、ボクの方も演じさせ方が分からなかったのだった。「変な刑事で」と突き離し、本人任せで放ったらかしにする演出も映画界にはあったんだろうが、ボクはそんな生ぬるいことを許すわけにはいかなかった。やっぱり、映画は監督が作るものだと思い知らせたかったからだ。ボクにとって、役者はボクの思想の塊であり、そして、その道具だったのだ。

 

クランクイン直前、ジャック出身の志穂美悦子嬢は、ボクの演出プランについて(役についての自分の思いから)行き先不安になり出したか、キャラクターの趣旨がボクとかみ合わなくなるのを心配していたようだ。

誰が呼んだか知らないが、原作脚本のつかこうへいが急に撮影所に現れて、俳優会館の稽古場を借りるや、自分の劇団の役者たちと主演の志穂美も集め、ラジカセの音楽まで役者の気分作りのために持参して、場面リハーサルをしていた。勿論、ボクは立ち会う気はなかった。大きなお世話だし、映画の演出はオレだろと開き直っていたからだ。おまけに、最後の殴り込みに行くためのラジカセから流れる曲が、つのだひろの「メリージェーン」とは戴けなかった。そんな曲をリハに持ち込まれたくなかった。ワンカットすら映像が上がっていないのに。そして、ボクはその曲が嫌いだった。

梅雨も始まり、インが近づいてきて、ボクの酒の量も増えた。

 

『無頼』は今後も順次公開します。

熱かった昭和時代にタイムスリップする“ヤクザ映画”です、『二代目はクリスチャン』とは真逆のリアリズムを味わってください。ぜひ、皆さん、劇場へ。

映画『無頼』公式サイト

 

映画『無頼』予告編動画

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。
在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。

1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。

1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。

上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE https://www.izutsupro.co.jp

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