歴史小説家・池波正太郎の師匠が食べた「ラウメン」

東京
フリーライター
youichi tsunoda
角田陽一

グルメ歴史小説家・池波正太郎
その師匠もグルメ作家

昭和の歴史小説家・池波正太郎
『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』などで高名である。
それら小説の魅力といえば巧みな情景描写、とりわけ飲食風景であろうか。

 

中村吉右衛門主演で人気を博したドラマ版の『鬼平犯科帳』といえば、
「鬼の平蔵」が火鉢の平鍋でつつく「しゃも鍋」、あるいは旬の「筍飯」、元盗賊の親父が営む屋台酒場の芋酒に芋なます…

その他『仕掛人・藤枝梅安』などでも、巧みな料理描写は尽きない。

それらを網羅したネットニュースもあるので、ここで紹介させていただきたい。

時代劇専門チャンネル:池波正太郎の江戸料理長
https://www.jidaigeki.com/regular/edoryouricho/index.html

 

さて池波正太郎の巧みな料理描写。
これは本人の趣味趣向や才もあるのだろうが、彼の小説創作上の師匠に依るところも大きいのではなかろうか。

池波正太郎の師匠は長谷川伸

明治十年代の横浜に生まれた彼は実家の没落で尋常小学校を中退し、遊郭の出前持ちや水撒き作業員、あるいは大工の弟子などの職を転々とする中でも「道に落ちた新聞紙を拾って」文字の読み書きを覚える。やがて劇評を書いて新聞社に投稿したのが縁で採用され、徴兵を挟んで記者としての取材に邁進、関東大震災後に辞職して本格的な作家活動に入る。

彼、長谷川伸が得意としたのは歴史小説。侠客が諸国をめぐる「股旅物」、あるいは「母を訪ねて三千里」よろしく、幼な子が生き別れのおっかさんを訪ねて歩く「母もの」。昭和初期に書かれた戯曲『瞼の母』は戦前戦後を通じて何度も映画化、ドラマ化され、あのサザエさんも観て感涙にむせんでいる。一説によれば、長谷川が幼少期、家の没落と夫の暴力により家を出奔した母への想いが投影されているともいう。

さて、本日の記事の主題は長谷川伸の「グルメ」である。
横浜生まれの伸は、横浜で多感な幼少期、青年期を過ごした。
明治中期から後期の横浜と言えば、文明開化真っただ中。
街には異人が、そして辮髪姿の唐人がそぞろ歩く。

明治期の横浜で、デビュー前の伸はなけなしの給金からグルメを堪能していた。
彼はそんな幼少期の記憶を後年、『自伝随筆』に記している。

 

辮髪頭の親父が供する
饅頭、ハーカー、そして「ラウメン」

新コ」(幼少期の長谷川自身の投影)が「南京街」の「遠芳楼」なる中華料理屋に、稼ぎの銭を握りしめて通っていた。この「遠芳楼」は既に忘れられた店だが、明治、大正期の名店であったという。

絶対に食い逃げできないよう、出入り口は狭い。だが店内の階段は緩い角度に設定するなど、ちゃんとした客の便宜を図った造り。店内に入り卓に座れば、もういくらかも残っていない髪で結い上げた細い辮髪を垂らした親父が「何喰うか」と尋ねる。手にする大薬缶から蓋つきの碗に湯を注いでくれる。碗の中には「あちらの茶」が入っている。茶が出たら蓋をしたまま、隙間から茶をすする。現在でも中国茶愛好家の定番の「蓋碗」そのままだ。

ここで「新コ」が「ラウメン」と答えると、親父は厨房へ向けて「イイコ ラウメン」と節をつけて叫ぶ。「イイコ」は「一個」の訛りか、まさか新コが「いい子」だからというわけでもなかろうが。

そうして親父は前菜として、「饅頭」「焼売」「ハーカー」の乗った皿を置いていく。皿には幾つも乗っているが、何個食べても良い。食べただけ、代金を払えばよろしい。新コはいつも「饅頭」と「ハーカー」を一つずつ食べる。ここで言う「饅頭」は、中華式の中身のないマントウか、中身入りの包子かはわからない。「ハーカー」は、「海老餃子」のこと。「蝦餃」は北京語では「シャージャオ」だが、広東語では「ハーカオ」。もともと長崎の唐人や横浜中華街の中国人は広東地方出身者が多く、言葉は広東語、供する料理は広東料理。広東地方出身者は華僑として世界各国に渡り、なおかつ広東にはあの「香港」がある。かくして広東料理は全世界に広まった。

ここで「新コ」は口を付けていないようだが、のちに横浜名物となる「焼売」も広東料理である。「シュウマイ」は広東語発音。決して日本語の「しゅうまい」は、北京語発音「シャオマイ」が訛ったわけではない。
そうこうしているうちに、ようやく「ラウメン」のお出まし。

「新コ」こと長谷川伸は、その「ラウメン」をこう描写する。

ラウメンは細く刻んだ豚肉を煮たのと小さく長く切った筍が蕎麦の上にちょッぴり乗っている、これが大した旨さの上に蕎麦も汁もこの上なしです

 

茶は1銭
饅頭1銭
ハーカー1銭
ラウメン5銭

「ラウメン」と「お湯」の二言しゃべれば事が足りるのがいい、と「新コ」こと長谷川伸はまとめる。

ラーメンと言えば一家言ある「識者」が百家争鳴の昨今だが、少なくとも日本のラーメン史を語るうえで貴重な一幕であろう。

さて、その長谷川伸の弟子であった池波正太郎も横浜中華街を愛した。彼の行きつけは、現在も店を構え豚足そばが名物の「徳記」。彼はこの店の「ラーメン」を愛した。そして亡き師匠を偲び、

明治末期、横浜の支那飯屋(原文ママ)のラーメンをなつかしがっていた亡師・長谷川伸にぜひ食べさせたかった。亡師は『ラーメン』といわずに『ラウメン』といった

と、随筆『散歩のとき何かが食べたくなって』に記している。

 

※参考文献
横浜中華街-世界最強のチャイナタウン』田中健之著、中央公論新社、2009年

※メインビジュアル
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shin_Hasegawa.jpg

プロフィール
フリーライター
角田陽一
1974年、北海道生まれ。2004年よりフリーライター。食文化やアウトドア、そして故郷である北海道の歴史文化をモチーフに執筆中。 著書に『図解アイヌ』(新紀元社)、執筆協力に『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』(宝島社)、『アイヌの真実』(ベストセラーズ)など。現在、雑誌で執筆中。

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