教養とネット

Vol.189
CMプロデューサー
Hikaru Sakuragi
櫻木 光

今月の編集者から出たお題は「本当の教養を身につけるにはどうすればいいですか?」

という質問から始まりました。

もらったメールをよく読むと、

「これからのオンライン、SNS等、バーチャルでのコミュニケーションが主流となりうる社会で、身に付けるべき本当の教養とはどういうものな

のか?」

と書いてある。

 

俺に聞くか?と思いました。俺はただのだらしないオッサンで所詮田舎のヤンキー。

お世辞にも俗に言う「教養」を身につけた50過ぎの大人には見えてないでしょ?

そんな事あんまり考えたこともないし。教養の定義もわからない。

という態度で、痛い目には人よりたくさん遭ってきました。

 

調べてみると

 

現在、大学教育などの中で重要視されている”リベラルアーツ(教養教育)”は、

もともと人々を束縛から解放し生きるための力を育むことを目的としているそうです。

考える力や考えるための材料がないと、人々は特定の考えに束縛され、

物事を深く理解することができないため。だそうです。

 

また、『人間にとって教養とはなにか』という本を書いた橋爪大三郎氏は著書の中で

「教養は、自分の狭い範囲を越えていくためにある」んだと。

「教養とは自分の思考の枠を越え、知覚できる世界を広げていく能力のことを意味する」

と書いてあります。

 

僕、これ、書いてある事がなんとなくわかるんですが、ストンと腑に落ちない。

つまりどういう事なの?って聞き返したら、やっと噛み砕いたような答えが

返ってくるような話し方が好きではないのでしょう。

つまり最初からもっと簡単にはいえねえのかよ?と思う。

 

文句言っても仕方ないのでここから紐解いて、平たくいうと、

教養のある人というのは「相手の立場や気持ちがわかる人」という事なんでしょう。

 

これがいかに難しいことか。鈍感な人には永遠にわかりません。

頭の良さそうな、前出の理屈くさい人たちも、わざと難しそうな言い回しをする人は

カッコつけちゃって本当の意味でも教養ではないと思う。

難しいことを小学生にもわかるように簡単には言えるのも教養なんじゃないか?

そういう書き方しなきゃいけないのかもしれませんが。論文のルールみたいなこと?

 

僕が思うに、自分に教養を身につけたいと思う人のやるべき事は

まず、相対している相手が、どんな事が好きか嫌いか知らなければいけない。

付き合いが長ければ、いろんな情報が入ってきているだろうけど、教養はそういう時には

あまり役に立たない。教養は自分がどんな人かまだ知らない人と何かを始める時に、

どういう対応をするか?の時に自分の価値を値踏まれながら求められる事が多いからです。

 

お互いに、ああ、この人教養のある人だな。という印象を持って始めて付き合いが

始まるし続けていけるんだと思うのです。

逆にいうと、最初に、こいつ教養のねえやつだなという印象を与えてしまうと、

次はないか長続きしないかのどっちかです。

 

ここで求められている教養ってなんでしょう?

 

僕が思うのは、

自分の周りのいろんな仕事や立場の人のやっている事を日々知ろうとしている事。

その立場の人はなにを大切にしてなにに価値があり、なにをどうでもいいと思っているのか?

やっている事はなにを目標に、どうなればいいと思っていて、どうなったら嫌なのか?

 

誰かに初めて会う時の情報として、そういうことを事前に調べて準備しておく。

自分が向けたい関係の方向と、その人のやりたい事の共通の項目や、あい入れなさそうな箇所

をちゃんと認識してからその人に合うという下準備がまず必要だと思うのです。

 

そして実際のお会いした時に、会話の中に、相手の話を終わるまでちゃんと聞く事。

自分の方が優位に見せようと思ってマウントを取りに行かない事。

相手の話が自分の考えと合わない時に、すぐに否定したり、怒ったり、遮ったりしない事。

何故考え方が合わないのかを、自分で得た知識の中から導き出して分析する。

 

他人にはいろんな立場があり、考え方があり、利害関係があります。

それをいつもの生活の中で理解しておけば狼狽えることも偉ぶることもないでしょうから。

 

話が進展していく中に出てくるキーワードやニュアンスを拾って、その人がどういう人か

予想をしてきた自分のシナリオをどんどん修正していく。

その人が口にしている事は立場の話か個人の話かニュアンスで判断して、丸呑みにはせず

真意なのかそうでないのかを考えながら話す。

 

そして自分の知らない情報に関しては、無理してその話に突っ込んでいかないで

教えていただけますか?という態度で話を聞く。

知らない事は知らないと言い、そして知りたいから学ばせてくれという態度が必要。

そういう事が冷静にできるのかどうか?という事だと思うのです。

 

それを死ぬまで続ける覚悟。がいるんですね。

 

そう考えていくと、教養というのは知識ではありませんね。

 

自分の持っている知識を、人と相対した時に、臨機応変に使って、立場の違う人との

関係性を作る時の柔軟さ。というのが教養だということになります。

 

若い人より歳をとった人がある程度教養があるように感じるのは、

まじめに長い時間、自分の人生を前に進めている人は、多分痛い目にあった数が違うんですね。

若い頃は、なめられてるし、知識や見識のなさでめちゃくちゃ恥をかきます。

偉そうなおっさんにマウントを取られっぱなしなのが悔しくて

言い返したり知ったかぶったり、頓珍漢なことを言ったりしたりして

いっぱい痛い目に遭いました。

だから、教養とは経験値ともいえます。こう言う時にはこれをやっちゃダメ。と言う経験値。

 

 

また、期せずして素の自分の時に、つまり酔っ払った時にもそれができるのかという問題も

最近取り沙汰されています。虫の事にすごい知識を持っていても、酔っ払って醜態晒したら

その知識を披露する場所すら与えてもらえなくなります。

 

つまり、自分の欲望を制御して自分を客観視する能力をどんな場所でも持っていられるか?

ということも教養の大きい側面だと思うのです。

 

 

さて、人と直接会って話ができる時代の教養はそう言う事だったのかもしれません。

今はその頃とは本質は変わらずとも、また少し様子が変わってきました。

 

まず、顔も見ないで、インターネットでメールやチャットでやり取りする事が増えました。

コロナ禍で急速に進歩したリモート会議も普通になってきました。

そう言う時に必要な教養というのはまた違ってきてると感じる事が多々あります。

 

仕事をしていて困るのがリモート会議です。直接会って話していないと

本当はこの人がどう思っているか測りかねる事が多い。

リアルな会議では、笑っていたり、貧乏ゆすりをしていたり、小さく舌打ちをしたり

あくびされたり、いろんな情報が瞬時に入ってきて話の振り方を修正できたりするけど

リモートではそれがとても難しい。

その人の画面を消されたまま話された日にはもう対処できないレベル。

リモート会議で怒ってる人はまず見かけない。なぜか皆冷静。

入ってくる情報が足りないのです。

 

社会も、リモート会議中に綺麗事と建前を優しく話さないと人間失格のように扱われる

ような気持ち悪い風潮にあったりするので人の本音が隠されていてわかりにくい。

こういう空気ではこの清い水に隠れて本音を隠した卑怯者が暗躍するので

先に探し当てて引きずり出し潰すのが本当に難しい。

そしてリモート会議の終わった後に会議とは関係のないところで意思決定された

都合の良くないメールが届く時もある。会議いらないじゃん。的な。

 

一般的にネットが酷いのは、呟きなどを読んでいると、

自分に直接関係のないことを、さも自分の考えが一番正しいというようなニュアンスで、

でも炎上するのが嫌なので、丁寧に、ちゃんと論理的に文句を書く人が沢山います。

そのレベルが上がっているという事。最近は感情的な悪口はあまり見かけないから怖い。

 

芸能人の失態を道端でおばちゃんが立ち話してるようなことをさも論理的に書いているけど

お前には関係ないじゃん。会ったことあるのかよその人と。

 

うまくいかない自分の生活のうさを晴らすのはやめてくれ。

と思うような呪詛みたいな事が冷静に書かれている。

大体、ネットに、たとえば芸能人のどうでもいい文句ばっかり書くような奴は

暇はあるけど教養がないのだ。忍耐力と想像力がない。

言わなくていい事は言わない。と言うのも教養。

 

知らない土地で関係ない人にビルの上から唾を吐いて、気持ち良くなっているようなもんで、

された方がどう思うか考えていないからだ。立ち話ならその場で消えていくが

誰もが読める文章になってそこに残っている、自分の知らない人の自分への恨み言がどんだけ怖いんだか。

吐かれた唾がずっと顔について匂っている感じを、自分もやられてみたらどう思うか?

書く時に一回考えようよ。自分に関係ない人に文句を書く価値はあるんだろうか?と

 

またそれをいちいちネットのニュースやテレビのワイドショーなどが取材をサボって

ちゃんとした一般の意見のような見方で取り上げたりするもんだから、正しい意見みたいに

勘違いされることもある。

 

それで人が傷ついて自殺したり、うつ病になったりしてるんだけど

どう思ってるんだろうか?最近はたまに裁判になったりしてるみたいですけど。

NHKのEテレの番組などでネットに書かれていることの扱い方を注意する子供番組とかも

あるみたいだから、徐々にその闇への教養もレベルが上がっていけばいいと思うんですけどね。

 

ネットでの教養。という事は、今回考えてみて難しさがわかりました。

 

人間はそもそもドロドロとしていて汚いものですから、人が羨ましいと文句を言い

粗探しをして、足を引っ張ります。直接関係ない人にマウントを取りたがる。

それが関係ない人でもなんでも気に食わない事は気に食わない。

期待してたのに、ファンだったのに残念だ。みんなが言ってるから自分の言い分は正しい。

台風の中コンサートを決行した人を無謀だと叩き、中止した人を腰抜けだと叩く。

 

でもお前の常識が他人の常識だとは限らないということを知った方がいい。

特定の考えに束縛され、物事を深く考えられない。からの解放が教養の定義だとしたら

まさにここに当てはまる。

 

ネットが始まってから30年くらい経つのだから、そろそろネット上での教養ということを

全ての人間が海洋プラスチックゴミの処理と同じレベルで意識して暮らさないと

近い将来、精神的にも地球に暮らせなくなっちゃうよ。と思うのです。

 

酔っ払ったときに嫌な事で書き込みするのが一番危ないですね。

俺が一番気をつけないとな。

 

※参考:flier book labo(https://labo.flierinc.com/contents/aba93dc0bc8c)
    『人間にとって教養とはなにか』橋爪 大三郎(著)

プロフィール
CMプロデューサー
櫻木 光
プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。

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