グラフィック2023.02.22

人が人のために考えた知恵を具現化して喜んでもらうのがデザイン

Vol.208
株式会社KOM&CO.DESIGN代表取締役社長・デザインプロデューサー
Yoshihiro Komuta
小牟田 啓博
拡大

高野山真言宗佛法紹隆寺 不動明王護摩祈祷札 2022年版

拡大

高野山真言宗佛法紹隆寺 不動明王護摩祈祷札 2022年版

拡大

高野山真言宗佛法紹隆寺 四神御朱印 龍神

拡大

高野山真言宗佛法紹隆寺 四神御朱印 玄武

拡大

高野山真言宗佛法紹隆寺 四神御朱印 朱雀

拡大

高野山真言宗佛法紹隆寺 四神御朱印 白虎

2000年ゼロ年代に気鋭のデザイナーらとデザインを重視した携帯電話を次々と世の中に送り出し、日本の携帯電話の歴史に大きな波を起こしたKDDI「au Design project」。このプロジェクトを牽引したのが、デザインプロデュース会社「KOM&CO.DESIGN」の代表取締役社長、小牟田 啓博(こむた よしひろ)さんだ。
デザインを主軸にしたマーケティング戦略の立案と推進には欠かせない、業界から引っ張りだこの存在だが、キャリアアップの過程でたどり着いたのは、「デザインとは人が人のために考え出した知恵を具現化して、喜んでもらうための行為である」という考え方。小牟田さんの根底に流れるのはモノづくりとデザインの可能性に対するはてしないリスペクトの気持ちだ。

カーデザイナーへのあこがれが出発点

幼少の頃からデザインをやりたいという思いがあったのですか?

小学校4年生ぐらいの時からです。アイデアを製品になる前の段階で絵にするカーデザインのスケッチが、非常にスピーディーでかっこいいと思ったのが記憶に残っています。小学生から高校生の間はカーデザイナーになりたいと思っていました。

お父様がソニーにいらしたこともその後の進路に影響していますか?

はい。父は、まだテープレコーダーが大きい(オープンリールの)ころに、メカニカルの部分である機構の設計エンジニアでした。家の中にはオーディオ機器や使い古されたスピーカーがごろごろ転がっていて、父は「(なんでも)好きにやってみなさい」と言うので、それらで遊んでいました。スピーカーに使われている磁石の(磁力の)強さを知った時、「機械ってこういうモノから作り出されていくんだな」と大変不思議に思いました。

いわゆるガジェット(便利な小道具的機械装置)とデザインがご自身の中で結びついたのは、大学に行ってからですか?

そうですね。大学は日本で一番、工業デザイナーを輩出している学校でした。そこで全米で最も評価が高いデザイン専門校の1つで、カーデザイナーを養成する一流校である「アートセンター・オブ・カレッジ・オブ・デザイン(Art Center College of Design, Art Center)」(ロサンゼルス)への研修ツアーに行く機会に恵まれました。
研修ではデザインを本気でやることの大変さを知る一方で、コンセプトメイクをすることの大切さや、世のため人のために素敵なモノを作ることに真摯に取り組む姿勢も学びました。ただ、本当に車が好きだったので、万が一仕事で行き詰った時に好きなものを嫌いになったら嫌だなと思ったんです。それなら、小さなころから触れていた家電品やオーディオの方がいいかもしれないと思いました。

デザインのスキルだけあってもだめ、組織が動くわくわく感を体験

UNIVERSAL MUSIC GROUP JETSTREAM Audio/ 2021

最初に就職されたカシオ計算機株式会社には何年在籍したのですか?

10年弱です。そこでは、デザインのスキルだけあってもだめだと気付きました。本来、会社組織で必要な政治力も予算を動かす力も若い僕にはありませんでした。が、自分なりにこういう風にやれば素敵な商品を作れるというイメージだけは明確にあったので、会社もそこについては僕に任せてくれました。
例えば、ある家電や電子機器を家電量販店の棚に並べたときに、きれいに見えるデザインで整えれば「これがカシオだ」という世界観をコーディネートできるはずだと考えました。また、ネーミングやデザインのテイストをそろえたいと申し出て、デザイナーにはあの先輩がいいと上司に希望をつたえるようにしていました。
そうしていると7、8年目ぐらいには、デザインセンター全体で年に1、2回、副社長に近未来のコンセプトを提案するミーティングのテーマの案を採用いただいたり、同時に上司や先輩がタイミングを見計らって予算を獲得してくださると、自分が考えていたようなスケール感のプロジェクトが、実現するのを実際に体験できました。

一人ではできないことでも、たくさんの人の知恵を集めれば、可能になるという考え方は今につながる原点ですね。

ええ。一個人でやれることには限界があります。極力多くの人たちが、多くの叡智を集めて素敵なゴールに向かって、ポジティブなマインドでアイデアを出そうとした時には、僕なんかが想像もつかないようなパワーが生まれる。我欲にこだわりさえしなければ、組織って動くと確信しました。

「携帯づくりをデザインからスタート」で伝説のマシンを生む

au design project PRODUCT DESIGN / NAOTO FUKASAWA DATE / 2003

その後、KDDI株式会社に移られますね。

特に不満があったという訳ではありません。ただもっと活躍できる場はないかと転職活動をしていたら、ある会社を通じて通信会社であるKDDIからデザイナーとしてお声掛けいただきました。てっきりWebデザイナーを探しているのだと思って「僕はモノづくりのプロなので」とお断りしていたのですが、面接に行ったら「携帯電話のデザイン」の仕事でした。メーカーに対してデザインをジャッジしたり、ディレクションしたりできる人、話が上手で人を説得できる人、理解を促すマネジメントができる人を探しているとのことで、「あなたはぴったりです」と言っていただいて、入社を決めました。
カシオでは電子手帳などのほか、携帯電話のコンセプトモデルのアイデアも描いていましたので、何かのタイミングでその経験が伝わったのかもしれません。
入社後はマーケティング部に所属して、これからどんな商品が世の中に“うける”のかを考える中で、デザイン面においてどんな商品をご提案していくかを考える役割に就きました。
携帯電話の市場がどんどん消費者向けになっていく時代の流れの中で、まだ日本中の企業が携帯電話における消費者心理を研究している最中に、auはいち早く本格的な消費者向けマーケティングに力を入れていたのです。

auに入社してから何年ぐらいで「au Design project」が始まったのですか?

何年も経っていません。既に入社したころには、デザインは深澤直人さんにお力をお借りしようと決めていたのです。深澤さんは、日米でプロダクトデザインに関わった後、独立。決して派手ではないが商品の本質を引き出すデザイナーです。当時、僕は30歳そこそこで自分の知識を超えて、どんどん人間の叡智という大きな海を目指していく時に、船頭は僕だけではだめだろうと思い、才能のある人と一緒にやっていくことを考えていました。入社して1ヶ月後には深澤さんにKDDIへ来ていただいていました。「通信会社という、メーカーとは違う立場で理想の携帯電話像を視覚化していきたい」とコンセプト出しをお願いしたら、「実はアイデアがあります」という言葉が返ってきました。

ターゲット層を見直し「華やいで見えるカラーラインナップ」を目指す

「au Design project」の携帯電話で初めて、デザインと携帯が一体化したように感じました。マーケティング的にはどうのように分析されていたのですか?

私たちはデザインという切り口で携帯電話を買う人は少なからずいると思っていました。深澤さんをはじめ、ソニーデザインセンター出身の岩崎一郎さんら一緒にお仕事をしたかったデザイナーの方に順繰りにお願いし、携帯電話づくりをデザインからスタートすると決めたのです。
当時メーカーさんは一番売れるポジションをとりたがり、そこに向けてマーケティングするとどこも無難なものになる。マーケティングする客層を違うものにする必要があると感じました。デザインという切り口で考えた場合、女性が欲しいと思うモノと、アクティブなビジネスパーソンの使うモノが同じであっていいはずがない。ハードを変えるのはお金がかかるので、色を変えることにしました。世界一、華やいで見えるカラーラインナップがauに来ればある、というものを作ろうと思ったのです。

軌道に乗り始めたと思えたのはいつごろからですか?

初期は苦労しました。深澤さんデザインの「INFOBAR」で2002年5月に「ビジネスショウ 2002 TOKYO」に出展すると、社長は「すぐやろう」とトップダウンで決断してくださった。ですが、どうやって商品にするか、どのメーカーに話せばいいかが分からない。試行錯誤を続け、2003年の秋に三洋マルチメディア鳥取(現社名:三洋テクノソリューションズ鳥取)から商品を発売できることになりました。
アートディレクターに、アートワーク、CM、ブランディングなどに定評のあるクリエイティブディレクター佐藤可士和さんに来ていただき「au Design project」という名前をつけていただいたんです。あの時代の一般消費者にはすぐにはご理解いただけないかもしれない高度に洗練された深澤さんの「INFOBAR」のデザインを受け入れ、発売にこぎつけた会社というところを佐藤さんは理解してくださった。泣くほど嬉しかったです。

当時、これまでの携帯電話になかったデザインに世の中が夢中になりました。 「INFOBAR」にはデザインにおける様々な要素が詰まっているのに、見た目はクール。

そうですね、デザインオリエンテッド(デザインを優先した発想)で作った商品ですし、その上、GPSなどの機能も漏らすことなく搭載してくれたのです。「人がやらないものをやるのが強み」だと実現してくださった当時の鳥取三洋電機さん。その判断が素晴らしかった。本当に興奮する1年でした。入荷しても売場からすぐになくなる勢いでしたし、伝説のマシンになりました。

若者は「自分にしかできないことを焦らず磨き上げて」

鎌倉長谷寺 なごみ地蔵木板(効いた)守り/2022

その後、現在経営する「KOM&CO.DESIGN」を立ち上げられて、現在はどのようなお仕事をされているのですか?

新会社の「KOM&CO.DESIGN」を作ったのが2009年。そこからauの携帯は全部みていて、「au Design project」が成長した「iida」というモデルにラインナップを持たせようと、同時期に複数の「iida」を出す仕事も手掛けています。
モバイル本体だけでなく市場が拡大していたアクセサリーもデザイン先行なものを出し、イタリアのNAVA DESIGN ( ナヴァデザイン )というステーショナリーやバックのブランドや、ALESSI(アレッシィ)というテーブルウェアのブランドとコラボするなどいろいろです。

御社のサイトを拝見したところ、お札やお守りといった寺社仏閣に関するものが掲載されていました。

そもそも、ハードをデザインする仕事をやってきて大量の廃棄物を出していることが気になっていました。何かしらを犠牲にしているではないか。次の世代に伝達して、100年200年と残るようなものを作りたいと思うようになりました。
これからは観光立国の時代でもありますから、最近はITとは真逆の観光に関われないかと考え、ご縁があって3年ほど前から、諏訪市にある高野山真言宗佛法紹隆寺さん鎌倉長谷寺さんはじめ幾つかの寺院さん向けに授与品(お守りや祈願札、絵馬など)制作のお手伝いをしています。それが好評で、全国の神社仏閣にお守り等、授与品制作をご検討いただいているところです。会社としても昨年、環境に配慮した仕事にシフトしていく腹を決めました。

以前、大学で講師のお仕事もされていらっしゃいましたが、学生に向けてどんなことを伝えているのですか?

デザインでも、モノづくりでも、経済活動やビジネスで語る人は大勢いると思います。が、僕は人が人のために考える知恵を考え出して具現化して喜んでもらうための行為がデザインだと思うので、その中で感じてきたわくわく感やダイナミックな感じを主に話しています。

デザイナーに限らず、若いクリエイターたちはどのような心構えでいればよいでしょうか?

人には必ず、生きている意味や生まれてきた価値、ミッション(使命)があり、存在自体に価値があります。その人にしかできないこと、貢献できる関わり方が1個、2個必ずあるので。それを広げて大事にしてほしいです。ご自身の価値を焦らず磨き上げて完成させる義務が、命をいただいている以上あると思います。自分のことだけでなく、人の価値を本気でリスペクトすることも大切です。ぜひ、磨き上げてほしいなと思います。

取材日:2023年1月18日  ライター:阪 清和、スチール:橋本 直貴、ムービー撮影:村上 光廣、編集:遠藤 究

プロフィール
株式会社KOM&CO.DESIGN代表取締役社長・デザインプロデューサー
小牟田 啓博
1969年、神奈川県生まれ。幼少時からデザインに興味を持ち、多摩美術大学でプロダクトデザインを専攻。カシオ計算機株式会社デザインセンターを経て、2001年にKDDI株式会社に移り、携帯電話端末のデザインに革命を起こした「au Design project」で気鋭のデザイナーらを起用し、デザインディレクターとして活躍した。2006年にはソフトバンクモバイルの孫正義氏の出資を受けてデザインコンサルティング会社「Kom&Co.」を創業して独立し、2008年には現在の「KOM&CO.DESIGN」を設立して、デザインからプロジェクトプロデュース、ブランディングデザイン、商品企画まで幅広く手掛けている。
株式会社KOM&CO.DESIGN URL:KOM&CO.DESIGN (kom-co.jp)

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP