映画は、客たちの慰みものでもエンタメでもなく、監督が自分と向き合うもの だというのが、少し分かってきた頃だった。

Vol.020
井筒和幸の Get It Up !
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

1983年に公開された「アウトサイダー」の紅一点、ダイアン・レインは可愛かった。まさにアメリカン・ニューアイドルだった。色香があって気丈そうで可憐な女優たち…、邦画でなら誰だろう、例えば、一昔前の大映の「赤い天使」(’66年)で中国の戦地で従軍看護婦を演じた、若尾文子さんか。「復讐するは我にあり」(’79年)で殺人鬼の緒形拳に身も心も任せながら絞殺された小川眞由美さんか・・・。果たして、日本にそんな女優がいるのかな?
ボクは日本映画のそんな意味では、未来を悲観していた。

 

映画ばかり見て過ごした。邦画では、今を時めく天下の角川映画が、深作欣二監督で「里見八犬伝」を封切っていたが、でも、見る気はなかった。薬師丸ひろ子って何なんだ?何年か前に「野生の証明」に出たという素人少女か。おおよそ映画女優とはかけ離れた顔立ちで、海の向こうの同世代のダイアン・レインとは似ても似つかない十代アイドルが主演して、飛んだり跳ねたりが得意の真田広之とやってる特撮チャンバラ映画だ…。深作は角川の「蒲田行進曲」もオーバー演技のオンパレードでやっているし、なにせ、米ソ核戦争で崩壊した地球の果てで奇しくも再会する草刈正雄とオリビア・ハッセーの「復活の日」という陳腐な妄想映画まで名前だけで撮らされるような、どうも“我らからの解らない巨匠”になっていたので、あの「仁義なき戦い」のフカサクはどこへ行ってしまったのかと、それを悲しく思うだけだった。

 

そんな時だった。83年の暮れ、自宅に「角川映画のプロデューサーの○○ですが」と電話がかかった。仲間の男優が角川春樹事務所所属で、その彼から、「角川に推薦しときましたよ、絶対に向こうからオファー言ってきますよ。井筒和幸のことは買ってましたから」と聞かされていたので予想はしていたが、ああ、とうとうオレも「角川もの」に片足を突っ込んでいくんだなと改めて、自覚した。電話の向こうの声は快活だった。「この秋公開のうちの一本、やってもらいたいので、近々、お会いできますか」と。

 

角川の映画はほとんど実は観ることなくやり過ごしてきた。ピンク映画を撮りだした頃、「犬神家の一族」の市川崑作品からスタートした。書店が映画製作ブランドを立ち上げて、映画界に殴り込みをかけたのだ。全国の書店に原作本を平積みして、映画と抱き合わせで売っていこうという魂胆から始まった、映画界への反逆でもあった。テレビのスポットにも宣伝費をかけて、電波をジャックする勢いだった。横溝正史のミステリーなど読んでもいなかった人たちが、映画ならと足を運んだ。もちろん、ボクはピンク映画で世の中に造反中だったし、なんで今、市川崑なんだ、こっちは「東京オリンピック」の全校生早朝映画会から見てないぞ。「ミステリーなんて映画でも何でもない只の暇つぶしだろが」と当時、くそ忌々しく思っていただけで、なら、こっちは「牝犬家の淫乱一族」だとシナリオを書いたりしたのだ。

 

横溝モノはそれ以後、不発ばかりの斜陽邦画の中で興行的にうまい汁を吸えた東宝が市川崑監督で連作し、一方、角川は角川で、「人間の証明」という、どういうジャンルにも収まりようがない、言ってみたら“母子もの”に鳴り物入りの宣伝と、ハリウッドの脇役ジョージ・ケネディをまたぞろ日米俳優共演の触れ込みで担ぎ出して、松田優作を主演に有名どころを陳列館のようにずらり揃えた中身の薄い大作だった。でも、さすがにこれだけはつられて観てしまい、その分、うんざりして疲れただけだった。俳優たちの大仰な演技に疲れ、タイトルが一番、コケ脅しだった。新しい邦画はないのか、ないのなら自分らで作ろうと思った時だった。

 

その後は、「野生の証明」だろうが「野獣死すべし」だろうが、「魔界転生」だろうが、強迫的な宣伝にうんざりして見ることはなかった。「スローなブギにしてくれ」は藤田敏八監督だったが、かっこつけ過ぎのバタ臭い音楽が耳に馴染まず、見に行かなかった。(後年、役者になった藤田さんを現場に迎えた時にその話をしたら、『イヅツはあんなの見なくていいよ』と言われたが)、思い返せば、結局、ボクは角川モノをほとんど観ていなかったのだ。そうか、なら、無菌状態だ。何の影響も受けずに自分のノリで「商業映画」を作れるかもだ。「みゆき」で他人さま物語の洗礼を受けたばかりだ。もう次からは誰の物語だろうと、朝飯前とはいかずとも夕飯前のいっちょう上がりで作れるだろう。丸腰でやれるだろう、そう、思えた。

 

「じゃ、何時にどこへ行けばいいです?」と聞くと、角川の○○さんが「銀座の、うちの社長や事務所が打ち合わせで使ってるクラブがあるんですが、そこでお願いできるかな。その前に、赤坂のサ店でうちの方針を話します」と明快だった。そうか、夜の銀座で映画は決まるんだ…。「赤川次郎って読んだことないでしょ?」
「まったく知らんですね。角川の小説、読んでないですわ、ダメですか?」「いやいや、だったら電話しませんよ…その、相米の「セーラー服と機関銃」とか、根岸(吉太郎)の「探偵物語」の一連になるかもなんだけど…、いよいよ井筒さんの出番が回ってきたのかなと思って」「はい、喜んで。了解です」
ボクは何の躊躇もなく、約束の場所に出かけて行った。

 

〈続く〉

プロフィール
井筒和幸の Get It Up !
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

井筒和幸の Get It Up !をもっと見る

TOP