半年間で、劇場用映画とは何かを学んだことだけは確かだった。でも、 もう二度と映画は作れないなと、自分の無能を改めて思った。

Vol.60
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

仲間たちとピンク映画もどきの制作に命懸けで挑んだものの、既成の日本映画なんて壊してやる!映画界に殴り込んだる!と気合いを入れたものの、ボクらが作った『性春の悶々』は、当たり前だが、何とも素人くさい恥ずかしい出来上がりだった。確か、大阪の「吉本キネマ」というピンク専門館の支配人に頼みこんで、通常のプログラム上映が終了した後、シネマスコープサイズのスクリーンに試写してもらったのが最初だった気もするが、実はあまり覚えていない。それは、まるで拷問みたいな長い長い1時間だったに違いない。ブドウ畑に置いたトラックの運転席でのセックス場面も徹夜しながらアフレコで嬌声を入れて仕上げたのに、大きいスクリーンにかけてみると、そのバックミラーにスタッフが隠れている姿がしっかり写り込んでるのが判って情けなかった。他の場面も粗(アラ)だらけで、今さらどうにもならないなと落胆すると同時に、自分の監督の無能を思い知るだけだった。大きなスクリーンで画像を映すと、演技の粗さ、嘘らしさ、物のちぐはぐさ、写ってはならない現実がバレてしまうと、瞬時に“虚構の世界“を壊してしまうことが判った時だった。スクリーンは恐ろしいとつくづく思った。

落ち込んでばかりいても仕方ない。一応、東京の日活のプロデューサーに観てもらう約束をしていたので、重い心を引きずったまま、助監督兼美術を担当した仲間の一人と重いフィルム缶を合わせて5缶、カバンに分けて詰めて、夜行バスで上京した。
日比谷の日活本社ビルの地下の喫茶店で、試写が終わるまで1時間待っていると、その年輩プロデューサーが現れ、「営業の奴ら何人か見たんだけど、うちではちょっとこれは配給できないなというのが結論なんだわ、よく撮ったと思うけど、カラミ(性描写)も少ないし、うちのロマンポルノ番線では無理かなと。ごめんね」と言われた。
東京で落胆していても仕方ない。また、その夜の大垣行き夜行列車でフィルム缶を持って帰った。1キロ近いフィルム缶は来る時よりも倍、重かった。
助監督兼美術の仲間は「くそっ、昭和30年代の感じ、ガンバったのにな」と呟いて、「大学の学祭で上映しよう。関大も同志社も声かけようや」と励ましてくれた。ボクは何と言い返したのか、それも思い出さない。

戻ってすぐ、試写をしてくれたピンク専門館に出向き、支配人に「東京の日活はダメでした。どこか上映してもらえるとこ、ありますかな?」と相談した。小太りの支配人が「よっしゃ、何にしろ、うちでかけたげるわ」と言ってくれた。「一週間やけど、1万5千円でええか」と。涙が出たのを覚えている。そして、支配人は淡路島の知り合いのピンク専門館にも「売り込みに行き」と紹介してくれた。早速に、淡路島の洲本にフェリー船で渡って、そこの館主さんに「よかったら、かけて下さい」と頼み込んだ。「ええよ。うちもフラットで1万5千で。シャシン(フィルム)の戻しは何処がいいの?」と。

映画商売の現場を知った。どこの場末の小屋(映画館)だろうと小屋にかかるまでは映画は存在しないということが初めて分かった。商店街にある邦画館では、ロマンポルノの神代辰巳監督が撮った萩原健一と田中邦衛の『アフリカの光』(75年)が上映中だった。北の果ての港町で生きる、アフリカの海に行きたいと夢を抱く漁師たちの青春群像だ。観たかったが、帰路分の金がなくなるので諦めた。

この半年間で、劇場用映画とは何かを学んだことだけは確かだった。でも、もう二度と映画は作れないなと、自分の無能を改めて思った。

仲間たちと気合いを入れて作ったファーストフィルムを、自宅の押し入れに仕舞いこみ、ボクはまた居候の日々に戻った。母親に「何してるのか知らんけど、これからどうすんの?」と心配されたが答えが見つからなかった。ボクはこんな会話を母とするために生きてきたんじゃないと自分に言い聞かせた。「何かの道具や物になって、人に使われて生きたくないんや。判ってよ」と父に精一杯言ったのも覚えている。敗戦直前の4月に兵隊に採られ、鹿児島まで行ったところで終戦を知って帰って来た、謹厳実直な父はもうボクに何も尋ねることなく、何をしろとも言わなくて、「よう考えて生きんとな」とだけ、だった。

映画なんて霞と同じだ、食べていけるわけがないと思いながら、でも、他に何もしたくないものはしたくないのだと言い聞かせた。行く気が失せていた映画館に、『ロンゲスト・ヤード』(75年)がかかったので、足を運んだ。バート・レイノルズ扮する囚人が刑務所長から終身刑にされるのを覚悟して、フットボールに勝負を賭けるラストシーンには、涙が出た。

夏が過ぎた頃か、主演の三上寛さんに紹介されたと、週刊誌の記者が「22才の監督は珍しいから記事にしますよ」と電話をしてきたので、ボクの映画人生はまた回転し始めるのだった。

(続く)

 

≪登場した作品詳細≫

『アフリカの光』(75年)
監督:神代辰巳
脚本:中島丈博
原作:丸山健二
出演:萩原健一、田中邦衛、桃井かおり、高橋洋子 他

『ロンゲスト・ヤード』(75年)
監督:ロバート・アルドリッチ
製作:アルバート・S・ラディ
原作:アルバート・S・ラディ
出演:バート・レイノルズ、エディ・アルバート、エド・ローター、マイケル・コンラッド 他

出典:映画.comより引用

※()内は日本での映画公開年。
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●鳥越アズーリFM「井筒和幸の無頼日記」(毎週日曜13:00〜13:50 生放送中)

https://azzurri-fm.com/program/index.php?program_id=302


●映画『無頼』

※欲望の昭和時代を生きたヤクザたちを描いた『無頼』はNetflixでも配信中。

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
https://www.izutsupro.co.jp

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