「なぜ、京都の撮影所に行ったか?それは旋風を起こし、映画のスタイルを変えたかったからだ。そして、大部屋俳優たちがボクの仕事を助けてくれた。」

Vol.38
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

京都はテレビ時代劇の撮影が多いので、有名俳優たちも撮影所内の大食堂で今日のランチを食べて歓談していた。こっちはまだ32歳の新米。京都東映に外部からそんな若いカントクが来たのも初めてらしく、珍しがられて目立っていたのは確かだ。これも一陣のつむじ風だったのか。『水戸黄門』や『遠山の金さん』に、峠の茶屋のお茶子や町娘の役で出演する養成所上がりの若い女子たちとも仲良くなって、食堂でアイスコーヒーを飲んで団らんしていたら、「井筒カントク、所長室までお越しください。所長室まで」と所内放送で呼び出され、当時の高岩淡所長から、「うちの仕出しの女の子らと一緒に、あんまりおおっぴらにお茶飲むのは控えてもらえないかな。俳優部の先輩さんから苦情があったんだわ。東映は端役さんが多いし、皆、出たがってるし、若い子に役を取られるんじゃないかって、まあヤキモチなんだけど」と苦笑いされた。ボクは「すみません」としか言いようがなかった。東京の日活撮影所の松木食堂(当時)でなら、夜でも若い女優たちとビールを飲んでたのに…。京都の“撮影村社会”では前例のないことは認めてくれなかった。衣裳部屋で俳優と衣装合わせで、部屋の隅にたたんで積まれていた袴と着物類をマクラ代わりにして、半分寝そべりながら打ち合わせをしたことも報告されていた。

所長は「衣装さんらは、衣装が一番大事なものだし、今までの東映の監督たちで寝そべって打ち合わせしたのは誰もいませんと言われたんでね。以後、慎んでもらえば」と釘をさされた。こんな掟破りもつむじ風には違いなかったようだ。

 

よその組の撮影スタジオも見てやろうと、大部屋の役者を見舞うつもりでこっそり見学した。やくざ物の『最後の博徒』の現場だったかな。

その時もまた思ったものだ。もう何十年間も思ってきた。有名スター俳優の演技はどうしても喜怒も哀楽もオーバー、リアクションもオーバー。松方弘樹ならいくらオーバーでも他の者が絶対に出来ない表情をしてくれたが、周りの俳優たちは結局、歌舞伎から引き継がれた古い形だった。芝居が固くて崩せないままの脇役が多かった。型どおりの動きが歯がゆくて、キャメラ横から、「もう一回、もっと崩して!」「もっと普通に!もっと自然に!」と言ってやりたかった。台詞をなんでそんな恰好つけて喋るんだ。相手を穴のあくほど見つめるなって。それを注意しようものなら、「台本に(見つめて)と書いてある」と言い返されそうだった。そして、“将軍”と呼ばれるベテラン山下耕作監督はただ淡々と、テスト一回、本番一回で「はい、オッケー」と静かに言うだけだった。大御所の役者より、仕出しの若い子たちは仕草も言い回しもずっと自然にやっていた。横の先輩からは「オマエはなんで流してしまうんだ」とテイクが終わる度に叱られていたが。

ボクは、どうしても京都の撮影所で旋風を起こしたく、うだるような暑さの京都と神戸でガンバって撮影した。今では常識だけど、京都の録音部には初めてのことだったが、監督用ヘッドホン(レシーバー)を用意してもらった。

 

その年、緒形拳さんと大映の撮影所で初めて会ったのは、スタジオ脇の便所で並んで“連れション”した時だが、拳さんがいきなり「なあ、オレは舞台でもそうなんだけど、相手役に「今日のオマエのリアクションは下手でやりにくかったな」って、言われたら嬉しいのよ。そういう芝居に見えない芝居がやりたいね。なぁカントク、狂ったようなヤツ(映画)やろうよ」と言ったものだ。

時代もまさしく、映画に新しい風を求めていたようだ。

 

井筒組は、京都の大部屋の若いタフな連中たちを何十人もあらゆる端くれの役で起用し、思い付くままにアドリブ台詞を言わせて、役名すらない連中の存在感を如何に印象づけるかにとことん拘って、とても楽しい現場が生まれたと思っている。スケジュールが折り合わずに降板した島田紳助と入れ替わりで登板した相方の松本竜介くんは、紳助くんよりずっとリアル感と面白味と悲哀のあるヤクザの子分役を、延べ50日間、演じてくれた。彼はとうの昔に世を去ったが、ボクに、吉本興業の若い漫才コンビたちを起用して映画を作っていく契機を与えてくれた。そして、どれだけ忙しくても、大部屋の若い連中らと映画館やホテルのプールで遊んだのはいい思い出だ。

1985年の夏が終わろうとしていた。京都東映で撮るのは、これが最初で最後だったが、でも、ボクの映画魂はまた新しい風を呼んでいた。

次は、東映から歩いて3分先の京都大映撮影所で、西村望原作の『犬死にせしもの』という海賊アクションものが待っていたのだ。とりあえず、岩風呂付きのその定宿にはそのまま逗留することにして、東映には3か月分の着替え服のクリーニング代も清算してもらった。それから後、年を越えてさらに半年間、京都に居続けることになるとは思いもしなかったが。

 

『無頼』は、6月5日から、都内・下高井戸シネマで公開です。

映画『無頼』公式サイト

 

映画『無頼』予告編動画

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。
在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。

1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。

1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。

上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE https://www.izutsupro.co.jp

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