ゴールデンカムイの謎 その13 キナオハウ(野菜汁)からアイヌの農耕文化を読み解く
野菜の汁物
「キナオハウ」
「ゴールデンカムイ」2巻
迫りくる北鎮部隊、さらにヒグマとエゾオオカミの襲来を逃れた杉元は、アイヌ少女・アシㇼパのコタン(村)へとまねかれる。
アシㇼパ、そして彼女のフチ(祖母)からアイヌの自然信仰を学んだ彼は、炉の鍋で炊かれるキナオハウ(野菜の汁物)をご馳走される。
ラゥオマㇷ゚(伏せ篭)で捕らえた川カジカを炙って煮込み、出汁を引く。
その出汁でキナ(有用植物)を煮込んだオハウ(汁物)。具はダイコンに人参、ジャガイモ、そしてホウレンソウ。
杉元はつぶやく
「んんん うまいっ」
味付けはアイヌ料理伝統の塩味。
味噌での味付けを提案したが、今だ味噌とオソマ(糞)との見分けがつかないアシㇼパに止められた。
さて、この場面に、別の意味で疑問を抱いた方もいるのではなかろうか。
アイヌは農耕をしないのに、汁物の具にダイコンやニンジンが使われている。
この描写は正しいのか、と。
古代にさかのぼる
アイヌの農耕文化
アイヌは狩猟、漁労民族としてのイメージが強い。
だが狩りの片手間に、農耕も行われていた。
北海道において農耕が始まったのは4,5世紀の頃とされるが、その伝統を受け継ぐアイヌ民族は川沿いに拓いた簡単な畑で、アワやヒエなどのアマㇺ(雑穀類)、そしてアタネと呼ばれるカブの一種を栽培していた。
面白いことに、穀物を収穫する際は根元から刈り取るのではなく、沼貝の貝殻で作った「貝包丁」で穂先のみ摘み取る。この収穫方法は、弥生時代の日本本土での稲の収穫法そのままだ。日本本土では「石包丁」を使っていた点が異なるとは言え、農耕技術の伝播の過程が垣間見られる。
やがて江戸時代も後期になれば、各種の野菜も栽培されるようになる。1790年ころには探検家で幕府の役人である最上徳内がアイヌにジャガイモの栽培法を伝え、さらに進出した和人の影響でダイコンに人参、インゲン豆なども広まった。探検家の松浦武四郎は幕末直前の1846年、石狩川下流のツイシカリ(現在の江別市対雁)でアイヌたちが「ダイコン」「カボチャ」「ジャガイモ」「ナス」「インゲンマメ」を畑に栽培するさまを見聞し、旅日記に記している。だがアイヌが穀物などを自給すれば、対する和人側は交易のうまみが削がれ、さらに漁場での労働力確保が難しくなる。そのためアイヌの農耕には和人の圧力がかけられてもいたらしい。
これらの事項を鑑みれば、明治後期が舞台の「ゴールデンカムイ」で汁物にダイコンやジャガイモが使われていても、何らおかしくはないわけである。その野菜類はアイヌが実際に栽培したものかもしれないし、小樽市近郊という立地条件を考えれば和人から購入したものかもしれない。
温室栽培の新鮮野菜がスーパーで簡単に手に入る現在はともかく、一年の半分を雪に覆われる北海道では冬場の野菜確保は死活問題である。
野菜の枯渇はビタミンの欠乏に繋がり、幕末に北方警備で駐屯した武士、明治期の開拓民らはいずれも脚気や壊血病に苦しんだ。
そのため冬が近づけば、「越年」(おつねん)と称して野菜の確保に奔走したものである。タクアンや鰊漬けなど漬物類を大量に漬け込み、屋内の地下室や庭の土中にはダイコンやニンジンなど根菜類を埋けて根雪の季節に供える。
スーパーの店先に「越年野菜」として大量に積み上げられた根菜類は、昭和末期まで北海道の初冬の風物詩だった。
明治の冬の北海道
ホウレン草はどうやって手に入れた?
さて…
それでも解けない謎がある。
「キナオハウ」(野菜の汁物)に入れられていた「ホウレンソウ」である。
明治後期のこの時代、温室栽培など想像もつかない時代。
根菜類ならともかく、ホウレンソウが手に入ったのか、と。
その疑問を説く手助けとなるのが、ゴールデンカムイの主要な参考文献の一つである『アイヌの食事』(農文協 1992年)である。
明治後期に北海道日高地方で生まれたアイヌ女性の聞き語りをもとに構成された本書には、
ゴールデンカムイで紹介されるアイヌの食文化の様々な「元ネタ」が掲載されている。
食べ物には感謝の意を込め「ヒンナ」(ありがとう)の辞を述べる。
チタタㇷ゚(タタキ)はツミレ汁風にしても美味い。
冬のトペニ(イタヤカエデ)の幹に傷をつければ、樹液が滴り「甘いツララ」ができる…
などなど
そして本書で説明されるキナオハウは、昆布出汁でダイコンやニンジン、ジャガイモを煮込んだうえ、おろし際にホウレンソウを加えて塩と獣脂、魚油で味を整えたもの。
当『アイヌの食事』が含まれる農文協「日本の食生活全集」は大正、昭和期の日本各地の「庶民の食生活」の再現をコンセプトに記述されたもの。
昭和期ならば、ホウレンソウの栽培、あるいは購入も可能であったろう。
もともとアイヌ料理で汁物の葉物野菜(山菜)に用いられていたのは、オハウキナ(汁物の草)と呼ばれる山菜・ニリンソウだった。
味にクセが無いため汁物の青みに好んで用いられてきた。このニリンソウはホウレンソウに味が似ているとされ、アイヌが和人文化の影響を大いに受けた近代以降は、ホウレンソウがニリンソウの「代用品」として使われる例もあったという。
杉元が味わった「キナオハウ」には、そんなアイヌの農耕と野菜類の伝播の歴史が込められている、とも言えよう。
※参考文献
『日本の食生活全集48 聞き書きアイヌの食事』農文協 1992年
『アイヌの農耕文化』林喜茂 慶友社 1969年
『アイヌ植物誌』福岡イト子 佐藤寿子 草風館 1995年