職種その他2021.10.08

『水曜どうでしょう』と私

東京
株式会社フェローズ アカデミーセクション シニアマネージャー
Mitsuru Koyama
小山 満

何が面白いのか、長い間わからなかった番組がある。

水曜どうでしょう』。

世に登場後、あれから25年が経っているが、

決して色褪せていない、すでに伝説となっているバラエティーだ。

ここで私の話をする。
埼玉県川口市出身で、札幌に住むことになったのは1997年3月。

新卒での赴任地が札幌だった。

私の新社会人生活は華々しく北の大地でのデビュー。

4/1の初出社はまだ雪が積もっていた。

全国展開していた私の会社は福岡が本社で、
札幌支店の空間は、あまり広いとは言えず、
会社ってこんな狭いんだと感じたことを覚えている。

オフィスには女性陣が数名いて、男性陣は大体デスクでタバコを吸っており、
広くないオフィスは、窓を開けないとすぐにモクモクになった。今は昔の話。

埼玉から来た私は、入社後すぐに女性陣の水曜日の動きが独特なことに気づく。

「今日、水曜日なんで」と、皆が普通に定時で帰っていく。

それも毎週、確実に。

あの時はまだ“24時間戦えますか”の風土は、わずかに残っていたんだけど。

そもそも当時の私は、役職名である常務とか次長とか主査とか専務とか、
それって誰が一番偉いの?って感じの“ピッカピッカの1年生(ビシッ!)”でした。

だから、学校を卒業したばかりの私が知らないだけで、
彼女たちは習い事とか勉強会的な事を、皆が水曜日にやっているのかな?くらいにしか思わなかった。

でも、新卒の自分は日々の業務についていくのに精一杯で、
それ以上は気にすることも出来なかった。

入社後数カ月半年くらいして、先輩が行きつけのBARに誘ってくれた。
店に入るなりY先輩「あれ?今日空いているじゃん」。

マスター「だってYさん、今日は水曜日だよ」、「ああ、そっか」とYさん。

飲食店にさえ悪影響を及ぼしている札幌の水曜日、
自分の周囲では何が起こっていたのか。

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 ついに理由を聞き、膝から崩れ落ちるほど愕然とした。
この時代にテレビで、皆が早く帰っている?

“俺たちひょうきん族”や“ドリフ”の時代じゃあるまいし、
仕事を途中で引き揚げるならビデオ録ってこいよ、と怒りすら覚えた。その時は。

『水曜どうでしょう』は96年10月にスタート。
私の来札時には、すでにOA後約半年が経っていた。

当時もはや、私の周囲ではちょっとした社会現象になっており、
少なくとも水曜日は、内勤の女性陣が全員、

定時前にはピリピリとした雰囲気を醸し出し、定時後10秒でさっそうと去っていく。
だから、そのスケジュールに合わせて会社の業務が動いていた。

という事は、会社も水曜日に関しては、定時退社を非公式に半ば公認していた。
思えば、当時のほとんどの札幌企業は水曜ノー残業デーだった、と今でも本気で記憶している。

やがて自分は、くだんのY先輩紹介のBARへ通うこととなり、
そこで偶然に出会った女性とお付き合いが始まった。

例に漏れず彼女は「どうでしょう」藩士(大ファン)だった。

けっこうな初期に、彼女からのジャブは衝撃だった。
「内地」(道内では、道外人をこう呼称していた)の人だから言っておくね、
水曜は番組が始まる前はもちろん、終わった後も余韻に浸るので、
連絡はしないでね、そう言われた。

驚く私に「え?それ普通だし」というリアクションをされたのが、
今でもフラッシュバックする。

何でも、番組が始まる前までに食事も風呂もすべて終わらせ、
心身を超神聖な状態にして、正座で番組スタートを迎えなくてはいけないそうだ。

だから、そんなに皆が早く帰るのかと謎の真実は発覚したのだが、
週末に彼女と会ったときは、「どうでしょう」の話題が8割を占める、

そんな日々が繰り返されていた。

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その数カ月後に、北海道全体を震撼させる大事件が起こる。
道内唯一の都市銀行であった「北海道拓殖銀行」が1997年11月に経営破綻。
吸収合併とかではなく、都銀が破綻したのは、後にも先にも
これが初めてではないだろうか。

道内経済は大混乱。
融資が止まった企業は次々に倒産し、
早々に私の会社も札幌支店撤退の判断が下った。

新卒赴任地で、1年を待たず現地撤退。
東京へ異動の辞令が出る。

だが私はそのまま退職。札幌へ残った。
次の仕事なんか決まってなかった。
「俺は札幌で何も成し遂げていない」という若さ故の退職であった。

さらに彼女ともお別れした。
そしてしばらく、働く意欲を失ってしまった。

しかし道内の状況など、どこ吹く風、 “柴田恭兵”ばりの“関係ないねっ!”という感じで、
『水曜どうでしょう』は、先週も、今週も、来週も、毎週OAが継続される。

HTB(北海道テレビ放送)では連日「拓銀破綻」のニュースが報道され、
同じHTBで「どうでしょう」が、ひたすら毎週OAされる。

「一年中、旅」? と思うくらい、大泉洋氏とミスター(鈴井貴之氏)は過酷ロケを敢行していた。
苦しくて潰れる道内企業を尻目に、「どうでしょう」は徐々に視聴率を伸ばしていく。

深夜帯にOAされていた「どうでしょう」は、10%以上の視聴率をバンバン出していた。

あの頃。
札幌中の走る車に『水曜どうでしょう』のステッカーが貼られていた。
そしてこの後、破竹の勢いで全国的な人気番組へと、昇り詰めたのは周知の通り。

地元(埼玉)の友人達からは、「どうでしょう」のビデオを録っておいてほしいという依頼がガンガンきた。
私といえば、拓銀破綻の影響を受けた退職後、未就業のまま約2年が過ぎていた。
録画依頼に関しては、すべて無視をした。
この行為で、友人関係を未だ修復できていない人もいる。

繰り返すが、そんな私の事情も “関係ないねっ!”という感じで、
『水曜どうでしょう』は、毎週、毎週、毎週……。
思い出すだけでアラスカや、ヨーロッパや、四国や、香港、韓国などなど
常に世界のどこかで「どうでしょう」が行われていた。

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あれから、20年以上が経った。
私は今も札幌に残り続けていた。
なんで札幌? とよく聞かれる度に、
通勤ラッシュが無いのと花粉症が治ったから、と回答している。

現在の私は2015年にフェローズ札幌支社に中途入社してから、
クリエイティブに特化した人材エージェントとなり、
2020年までHTBを担当していた。
担当のH部長(当時)は、非常に良くしてくれて、
弊社を通じてたくさんのスタッフをご採用いただいた。
今もそのスタッフさんの多くは継続して活躍している。本当に感謝しかない。

当時は、ほぼ毎日のようにHTBを訪問するほど関係が濃くなった。
局の社屋は、看板から、1階ロビー、各フロアーに至るまで、
ほとんど大泉洋氏や「どうでしょう」一色になっていた。

しかし、実は私は5年ほどHTBを担当させていただいたが、
H部長と「どうでしょう」の話をしたことが一度もない。

戦略的にあえてというよりも、たぶん私が『水曜どうでしょう』と距離を置いていた。

一方で、『水曜どうでしょう』はOA以外でも話題をさらっていく。
「どうでしょう」のDVD・Blu-rayは累計出荷枚数500万枚を超え、
過去に開催した野外イベント「水曜どうでしょう祭」は、8万人が札幌に集まり、
交通規制で警察が出動するほどの大騒ぎとなった。

さらに、全国各地の百貨店で「水曜どうでしょうキャラバン」というグッズの催事販売を展開したりと、
「どうでしょう」は、テレビの枠を超え、全国区となっていった。

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そんな私に2020年、東京本社異動の辞令が出た。
同年6月に単身での赴任だ。

「どうでしょう」大泉洋氏の大学の後輩(面識は無し)である妻と、
息子二人は札幌で暮らしている。

仕事は自ら数字目標を持って動くことは無くなったが、
責任が大きい役割と、さらなる活躍の機会を与えていただいた(と思っている)。

しかしコロナ禍のため、家族の元には帰省できない日々が続いた。
考えてみれば、二人の子供とこれほど長く離れて暮らすなんて、
まったく想像していなかった。

そんな私の東京の部屋には小さいテレビがあり、週末はたいてい付けっ放しで生活している。
突然、白昼のTOKYO MXから、かなり昔の『水曜どうでしょう』が、私の眼前に現れた。
日曜日の昼間にOAされている「どうでしょう」は、違和感しかなかった。

内容は忘れてしまったが(確かユーコン川だったような……)、
しかし私には「俺たちはいつでもお前のそばにいるんだぜ」
というメッセージだった。

同時に、私はハラハラと涙が落ちているのに気づかず、
その理由もわからず、
ただただ雫が、私の膝にぽたぽた垂れ続けていた。

懐かしいとか、今の環境が寂しいとかの感情ではない。
画面はずっと大泉氏とミスターと藤やんが、ゲラゲラ笑っている。
その光景が、とてつもなく眩しかった。

世界的な配信プラットホームでも見られるようになった今、
当たり前だけど、
『水曜どうでしょう』は、世界のどこででも「どうでしょう」が実施されている。

私は日本のどこにいても「どうでしょう」を目の当たりにできる。
その当たり前が、唐突だった。

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『水曜どうでしょう』は、
ずっと私の横にいた。いや中かもしれないし、前だったかもしれない。
縁もゆかりもない札幌で突然に離職し、不遇な時間を感じながら、
世の中をあきらめかけていた時も、
晴れて再就職し、結婚し、子供も生まれ、今は家族と離れて暮らしている時も、
『水曜どうでしょう』は、恐らく20年以上ずっと、「どうでしょう?」
と、私に問うていた。

『水曜どうでしょう』は、
単に水曜日だけの話ではなく、
地元の最大手の銀行が潰れようが、
雪が降ろうが槍が落ちようが、
お前のこれから一生続く「水曜日はどうなんだ?」と、
「俺たちは、ずっと変わらず、どうでしょうだぜ?」と問うていた。
「俺たちは、ずっとここにいるぜ」と言っていた。

私は問われ続けたのにも関わらず、
その回答的なものを出せなかった自分に目を背けていたからこそ、
番組自体を面白いものとして捉えられなかった。

私は自分に対し、あの時、どうでしょう?と問うことから逃げていた。
そして、今までその逃げていたことに対し、どうでしょう?と問われることも怖かった。
日曜の昼間に突然に現れた「どうでしょう」は、そのすべてを許してくれたような気がしたのだ。

大泉洋氏と藤やんの口論と、寡黙に笑うミスターは、あの時からずっと変わらない。
「お前はお前以上でも以下でもないんだよ。いいじゃんそのままで。全部許してやっちまいな」と、
テレビから聞こえてきたのは、きっと私だけではないはずだ。

もしかしたらこんな私でも、
「どうでしょう?」と問うことにより、
私以外の人を、救える日が訪れるのだろうか。

2002年に制作ディレクターの藤村忠寿氏は
「一生どうでしょうします!」という決断を発表し、レギュラー番組を終えた。
以後、不定期な特番で『水曜どうでしょう』はOAされ続け、現在に至っている。

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プロフィール
株式会社フェローズ アカデミーセクション シニアマネージャー
小山 満
出版社で女性誌の企画・編集・制作に11年従事した後、水産系の企業でプロモーションに従事。主に広告宣伝と事業開発を担当。その後、株式会社フェローズでエージェントとして、クリエイターの就職・就業をサポート。 今までの経験、最新の知見を活かし、研修制度「小山塾」を主宰。主にWebとグラフィック分野の技術指導、専門性のスキルアップ指導のため、自社エージェント向けに定期開催中で、これまでの開催は100回をゆうに超えた。現在はフェローズクリエイティブアカデミーで、クリエイターのスキルアップのためのセミナー・イベント企画・運営を担当している。

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