3度の挫折を乗り越えて一流のディレクターに。京都で「すごい!!!」ゲームを創造する。

京都
株式会社ゲームスタジオ 関西事業部 リーダー
Kouki Shigenaga
重命 亨季

株式会社ゲームスタジオ関西事業部リーダーとして、20名のスタッフと制作活動を続ける重命亨李さん。ゲームとはかけ離れた青春時代を送りながらも、運命的なきっかけからゲーム業界での仕事をスタートされたユニークな経歴をお持ちです。大学時代や東京でのエピソード、京都での仕事ぶりについてお聞きしました。

子どもの頃から新しい世界に惹かれた

ゲームとの最初の出会いはいつでしたか?

小学生の頃はゲームが大好きでした。両親ともにゲームが好きで、自宅にはファミリーコンピューターもプレイステーションもありましたし、父はRPGにはまっていたのです。私は攻略本を読み込むのが好きだったので、よく父に攻略法を教えていました。

学校ではいかがでしたか?

勉強が好きで、成績もよい方でした。放課後にはピアノ教室や英会話教室に通っており、将来は英語の先生になりたいと思っていました。その流れもあり、英語に力を入れた私立高校に進学。高校2年の1年間はニュージーランドに留学し、高校3年は英語で授業を受けるグローバルな環境を経験しました。留学によって親元から離れて暮らす楽しみを知った私は、もっと広い世界を知りたいと、九州にある立命館アジア太平洋大学に進学したのです。

ゲームの道には進まなかったのですね?

ゲームは好きでしたが、まさか自分がその道に進むとは夢にも思っていませんでした。大学では、メディア専攻を選択して、ドキュメンタリー作品を制作。1作目は若手農家の挑戦を追いかけたもの、2作目はラップ音楽でアルバムをリリースする友人に密着したものです。特に、2作目はアメリカでのレコーディングにも密着して自分なりにこだわって作りました。

映像の道に進もうと思っていましたか?

モノづくりの楽しさはこの時に知りました。しかし、これが最初の挫折になります。私も頑張って作ったつもりでしたが、同じゼミに自分よりももっと情熱をこめてライフワークのように、作品を制作していた友人がいたのです。その彼を見ていて、「自分はクリエイターとしては、彼に勝てないかもしれない」と感じました。1本目で取材させていただいた農家の方も、新しい農業をめざして野菜を作り込んでいた方。2人との出会いをきっかけに「自分は作り込むクリエイターよりも、人をつないだり、発信したりする仕事の方が向いているかもしれない」と考えるようになりました。就職活動はWeb系を中心に行い、大手3社に内定。その中でも、幅広く情報を扱えると感じた東京の「株式会社IMJ(以下、IMJ)」に就職しました。

地元・京都ではなく東京を選んだ理由とは?

私は長男なので、いずれは京都に帰ると思っていました。だからこそ、若いうちに東京を体験してみたかったのです。当時、IMJにはスタイリッシュでおしゃれなクリエイターたちが活躍しているイメージを持っていました。「これからは自分もその一員に」と入社前から胸を高鳴らせていました。

2度目の挫折で、モチベーション急降下

念願のWeb業界はいかがでしたか?

実のところ、IMJでは一度も仕事をしていません。「おしゃれなクリエイターの仲間入りをするんだ!」と息巻いていた私ですが、グループ会社の一つだった当社、ゲームスタジオに配属されてしまったのです。そこで待っていたのはむさくるしい男たち(笑)しかも、社員50人ほどの小さな会社だったので、イメージとは程遠く、正直かなり落ち込みましたね。そのうえ入社初日には「お前は何でここにいるかわからん。正直、俺はお前のことはいらんと思っていた」ととある役員の方に言われてしまって。私のゲーム人生は、2度目の挫折と絶望からスタートしました。

ショッキングな環境で、今まで続けてこられた理由はなんでしょうか?

「いつか見返してやろう」という一念でした。入社後はとても悩みましたし、同僚から心配されるほどその役員の方からは厳しく叱られ続けました。今思えば、やる気のないふてくされた態度が、伝わっていたのかもしれません。その一方で、先輩たちと一緒にゲームを作っていくのはとても楽しかったです。当時は小さい会社ということもあり、早い段階から色々任せていただいたので、「とにかくいい仕事ができるようになろう」と仕事に打ち込みました。会社はイヤでも人は好きでしたね。入社3年目になる頃にはディレクターとして仕事をさせてもらうようになり、やりがいを感じるように。そんな時にITバブルがはじけ、当社はIMJから独立することになりました。そこでIMJに戻る選択肢もありましたが、「今辞めたら中途半端。もう少しここで勉強してできることを増やしたい」と当社に残る道を選んだのです。

東京での暮らしはいかがでしたか?

20代を楽しむには最高の場所です。平日は終電の毎日でしたが、土日はしっかり休んでライブや野外フェスに参加しました。東京は遊びに行く場所も、呑みに行く場所もたくさんありますし、土日は必ずどこかでイベントが開催されています。モノづくりをするうえでインプットはとても大切。見たことのないものや、経験したことのないものには積極的にチャレンジしていきました。

東京でご結婚もされていますね。

入社4年目の時に、同期でずっと仲の良かった妻と結婚しました。彼女はディレクターとして、企業のWebサイトを担当しており、新商品が出ると帰宅が朝5時をまわるほど。そんな結婚生活を続けて2年目に第1子を妊娠しました。忙しい会社だったので働きながらの子育ては厳しく、彼女も兵庫県の出身でしたので、関西に帰ろうかという話になったのです。当初は転職を考えていましたが、社長から「まだやり残したことがあるんじゃないのか」と。確かにまだやりたいという気持ちがあり、「それなら京都でやればいい」ととんとん拍子に関西事業部立ち上げの話が進んでいきました。

Uターン後、スタッフを抱えて仕事ゼロに

久しぶりの京都はいかがでしたか?

「また新しい出会いがある」「自分のチームを好きに作れる」とワクワクしていましたが、いざ1人になるとやることがなく、とても寂しかったことを覚えています。しかも、東京から人手は出さないという約束でしたので、レンタルオフィスから1人でスタートしました。やがて他会社に転職していた元同期とプログラマーが加わり3人に。「3人なら仕事ができるかもしれない」と元同期が動いてくれて、”プロモーション用のスロットアプリ”という案件を受注しました。これが最初の仕事です。運よく同じクライアント様から再びお仕事をいただくことができ、さらに他のクライアント様からスマホアプリの案件も受注でき、オフィスの移転、スタッフの増員へとスムーズに走り出しました。

そこから現在の形に?

そのまま順調に進めば良かったのですが、スマホアプリの売上が思うように伸びず、早々に終了してしまいました。アプリの運営でチームを軌道に乗せたかったのですが、そこに躓きました。新規営業に走りましたが、箸にも棒にもかからぬ状態。営業用の見本アプリとかも作って、必死で動きましたが、まったく仕事がない状態が1年間続きました。これが、3つ目の挫折です。

スタッフを抱えて……厳しい状況ですね。

何人かのスタッフが去り、残っているスタッフもやることがない状態。正直「もうたたんでしまおうか」と思いました。そんな矢先、ずっと進行していた3社共同プロジェクトで出資元が抜ける、という最悪の事態が起こりました。「もう終わった・・・・・・」と思いましたが、ここで諦めるわけにはいきません。「ここまで作ったのだからやりましょうよ」と無理を承知で1社に食い下がりました。すると、ご担当者様が「予算は少ないけど続けよう」と男気を出してくださったのです。これほどうれしかったことはありません。絶対にリピートを取ろうと、スタッフ一丸となって制作にあたりました。”わらをもすがる”とはまさにこのこと。ありがたいことに、その会社とのお付き合いは現在も続いており、関西事業部はスタッフ20名のチームに成長できました。

壮絶な体験でしたね。意識の変化はありましたか?

「売れる作品を作ろう」という思いが、昔以上に強くなりました。以前は自分さえ楽しければ……という気持ちがどこかあったのかもしれませんが、クライアント様に成功していただかなければ次はありません。売れるコンテンツを作るには、他のゲームにはない強みを高めて「すごい」と思ってもらえるゲームに仕上げること。まさに、当社の企業理念「”すごい!!!”の創造」です。売れているゲームの真似をしても通用しません。売れるゲームを作るにはこのチームをどう生かすか、どう組織を強くしていくかについて考えるようになりました。

出会いが転機に。映像やアニメへと人脈が広がった

働くうえで東京との違いを感じたことはありますか?

東京と京都では、スピード感とコミュニケーションの取り方が違います。京都は全体的にはんなりとしており、意見を伝える時もやんわりと察するのを求める文化。案件数が多い東京では、はっきりと意見を伝えなければ進度が遅れてしまい、仕事が終わりません。まだ京都に慣れていなかった頃は「なぜそんなゆったり仕事をしているんだ!」とイライラしたことも。それが京都の文化だと気づくまでに1年かかりました。

スタッフの気質に違いはありますか?

京都のスタッフはクリエイター色が強く、ユニークな発想を持つ人が多いと感じています。ピュアな人が多いですね。業界でよくいわれているのは、 「東京はビジネスマンを採用できても、クリエイターを採用できない」 「京都はクリエイターを採用できても、ビジネスマンを採用できない」 ということ。売れるゲームを作るという意味では、ディレクターがビジネス思考を持ちながらもいかに彼らの良さを生かすかが大切であり、ディレクターの手腕が問われるところかなと思います。

京都の課題は何でしょう?

パブリッシャーの数が少ないですね。パブリッシャーがあっても大手企業はハードルが高く、中小企業は自社で制作されていますから、新規参入の私たちにとっては厳しい環境。企業からお仕事をいただくことに集中するより、京都の魅力を生かした自社コンテンツを考えていった方が面白い仕事ができるかもしれません。

関西で人脈は広がりましたか?

よく京都府主催のビジネス交流会が開催されており、ゲーム、映像、アニメなどあらゆる業界の方とお知り合いになりました。そこで感じたのは、会社ではなく個人を見てもらえるということ。東京では「ゲームスタジオの重命」という見方をされていましたが、京都では「今はゲームスタジオにいる重命」と受け取っていただいている印象です。自分自身を見ていただけるのがうれしいですし、出会いによって人としての幅も広がりました。

京都の学生を一流のクリエイターに育てたい

暮らしの面ではいかがでしょう?

宇治に家を構えて、妻と3人の子どもたちと暮らしています。近くに小さな山があって、ゆったりと時間が流れる環境です。通勤ラッシュも人ゴミもなく、ゲームの仕事を続けながら豊かな自然の中で生活するなんて、東京ではできなかったこと。3人の子どもを持てただけでもUターンした価値がありますね。

重命さんにとって京都の魅力とは?

都市と自然があり、バランスも良いと感じます。市内には世界遺産級の歴史と文化があり、大学や専門学校も多く立地。これだけの文化があるのは京都だけなのでは。文化が息づく京都は、新しいことを生み出すのにふさわしい場所だと思います。

今後の⽬標について教えてください。

現場発信で何かできないかと考えています。スタッフが作りたいと思うコンテンツをビジネスレベルに引き上げて発信したいですし、京都の文化や歴史を生かしたコンテンツ制作にも興味があります。スタッフが楽しんで制作できる環境づくりと同時に進めていきたいですね。そしてもう一つは、京都の学生さんたちと仕事をすること。京都にはユニークな学生さんがたくさんいると感じました。ゲームのリリース体験をたくさん積み重ねてもらって、彼らを一流のクリエイターに育て上げたいというのが目標の一つです。

U ターン、I ターンを考えている⽅にメッセージをお願いいたします。

単に仕事を求めるのであれば、クライアントの多い東京が適しているでしょう。でも京都には京都でしかできないことがたくさんあります。Uターンするなら、京都で何か新しいことをしよう、新しいことを始めるにはどうしたらいいだろう、と考えた方がきっと楽しくなるはずです。

取材日:2019年3月11日 ライター:葉月蓮

プロフィール
株式会社ゲームスタジオ 関西事業部 リーダー
重命 亨季
1983年、京都府宇治市出身。大学ではWebや映画といったメディアについて学び、卒業後はWeb業界をめざして東京へ。あこがれの会社に入社するが、ひょんなことからゲーム業界に足を踏み入れる。2014年、京都にUターン。株式会社ゲームスタジオ関西事業部を仕切るリーダーとして、営業活動から制作進行管理、部下育成までフル回転でこなしている。

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