作曲の仕事には今なおわくわくし続けている。渡辺宙明、90歳を越えて現役を走るモチベーション

Vol.173
作曲家
Chumei Watanabe
渡辺 宙明

アニメや特撮においてレジェンドの作曲家のひとりが渡辺宙明さん。「マジンガーZ」をはじめとした渡辺さんの曲を、全く聞いたことがない人はいないのではないでしょうか。

渡辺さんは御年94歳となった今なお現役で、63年という驚異的な年月を楽曲制作の第一線で活躍されてきました。数々の映画やドラマ、アニメや特撮と多くの作品に曲を提供され、国内外で高い評価を受け、2019年には文化庁映画賞を受賞したのです。今回は渡辺さんに、音楽と歩んできた人生と、楽曲制作について伺いました。

音楽なんて興味がなかった幼少期。運命を動かしたのは一本のハーモニカ

音楽の道を志したきっかけはなんでしょうか。

中学生の頃、友人の一人が休み時間にハーモニカを吹いていたんです。初めてそのハーモニカを聞いたとき、「こんな音を複雑に出せる楽器があるのか」とびっくりして。

さっそく三越に行って、教則本とハーモニカを買いました。私は名古屋の人間ですが、その頃は東京にいました。

ご友人が持っていたハーモニカがきっかけだったんですね。それまでは音楽に興味はありましたか。

全く興味はなかったですね。妹がピアノを習っていましたが、それを見てもバカバカしいと思うくらいでしたから。ハーモニカに出会うまでは音楽をやろうなんて気持ちはありませんでした。

子供の頃、私が受けた音楽教育といえば中学校の先生からです。歌をあまり歌わせないで、理論の説明をしてくれる先生でした。

音階の構造を教えてもらって、移動ド(階名)でなるべく早く読めるようにと指導されました。

固定ド(音名)ではなくて移動ド(階名)の方が重要で、絶対音感は必要ないというのが私の考え方です。五線譜も読めるようになり、やがて作曲家になりたいと思うようになりました。

作曲家になるために、何をされたんでしょうか。

将来は映画音楽の作曲家になりたいと父に告げると「それならハーモニカじゃなくてピアノだろう」と言われ、ピアノを習うことになりました。15歳のときです。小さい頃からやっていたわけじゃないので、作曲家になれるかと非常に悩みました。

でもピアノばかり弾くようになったものだから、母親が「いい高校、いい大学に入れなくなるんじゃないか」と心配しましたね。親父は「1日に20~30分ならいいじゃないか」と。まあ、実際はそれ以上弾いていましたが。

ピアノって発表会がありますよね。誰にも言っていなかったのに、発表会に中学の友人たちが何人もやってきました。中学では私がピアノを弾けることは広まっていたようです。

音学大学ではなく個人に師事。天才が選んだ音楽の学び

進学先は音楽大学ではなく東京大学だそうですが、音楽大学で専門的に学ぶことは考えなかったのですか。

父には普通の大学は出ておけと言われました。当時、音大は大学ではなかったんです。東京藝術大学も東京音楽学校と言われていた時代です。

大学時代は、團伊玖磨(1924~2001・日本)先生に和声楽を習いました。大学を卒業する頃、日本映画をかなり見て回りました。当時、日本映画の音楽のレベルは高くないと感じました。これなら自分の方が上だと思えたんです。卒業前にはもう作曲家になることを決めていました。諸井三郎(1903~77・日本)先生にも学びました。

作曲家になってから、サックス奏者の渡辺貞夫さんがボストンのバークリー音楽院から帰ってきて、自宅でジャズを教えていると聞いて、習いに行ったのです。素晴らしかった。こんな理論があるのかと感動しました。

ジャズは南米の黒人音楽から自然発生的に生まれたアドリブ的なものでした。モダンジャズのハーモニーの理論はジョセフ・シリンジャー(1895・ウクライナ~1943・アメリカ)という人が確立したもの。現在のジャズのハーモニーは彼がつくりあげたものです。

音楽を学ばれていて、作曲家として必要なものは何だと感じられましたか。

私自身が作曲をすごく勉強したかというとわかりません。ただし飲み込みの速さは必要です。

渡辺貞夫さんのところでは宿題が出るのですが、それをやってくるのが、僕とジャズピアニストの鈴木宏昌(1940~2001・日本)さんしかいなかった。レッスンの内容を理解できなかった人もいたようです。

その理由はたぶん固定ド(音名)で読譜していたからだと想像していますが、階名で読むことが理論の学習には必要なのです。

作曲をやっていくと覚悟を決めて、ラジオ局へアピール

デビューはラジオと伺いましたが、どのような経緯だったのでしょうか。

親父ががんで亡くなり、名古屋に戻っていたときです。とにかく仕事をしなければ、と中部日本放送(CBC)に行き、受付で「音楽関係の方を呼んでください」とお願いしました。

すると担当の方が話を聞いてくれました。「作曲家になりたいんです!」と話すと、「また遊びにいらっしゃい」と言ってくださった。

何度か通っているうちに、脚本を渡され、そこで初めて曲らしい曲を作りました。そのうちに作曲の依頼がどんどん増えていったんです。

ラジオ局につてはあったのですか。

何もありません。今じゃ考えられないですよね。知り合いもつてもない、未経験者が受付にいきなり行ったんですから。

今はつてがない場合は、作曲家が所属する事務所に売り込むという方法が多いです。いい曲を書ければ、事務所が面倒を見てくれます。私は所属したことはなく、ずっとフリー(ランス)です。

映画音楽は大編成のオーケストラ演奏も多いですが、1人で続けられたのですね。

多くの楽器を使う場合も1人で勉強することは可能です。スコアと楽譜と理論。オーケストレーションの本もある。東京で先生にも習いました。あとは経験です。

ラジオの仕事はとても役に立ちました。小編成の曲で、いろんな楽器の音色が分かります。それをどう重ねればいいのか考えるのです。現場経験は大切です。知識が蓄積されていきます。

名古屋から東京へ。特撮やアニメとの出会いと記憶に残る音楽

名古屋でのお仕事が順調ななか上京された経緯を伺えますか。

ラジオの仕事を多く受けていた頃に「そうだ、次は映画だ」と思い立ちました。そこで当時新東宝のプロデューサー助手をやっていた、宮川一郎さんに相談に行きました。

後の水戸黄門の脚本家です。「ともかく東京に出てこいよ」と言ってくれました。ただ彼、私の曲を聞いたこともなかったんですけどね。

上京し、新東宝の撮影所で宮川さんにテープを聞いてもらおうと持っていくと、そこに音楽のことが分かるプロデューサーもいたんです。「ああいいですね。そのうち電話しますから待っていてください」と言われてね。ひとまず安心しました。

映画やドラマの音楽を制作され、やがて特撮やアニメの音楽と出会われたんですね。

昭和30~40年は映画、記録映画、テレビドラマで作曲をやっていました。そして昭和47年に『人造人間キカイダー』の作曲を依頼されました。「子供のものか」と少し意外でした。でも担当者に「子供のものがいいんだよ」と言われました。『マジンガーZ』の依頼もありました。

特撮やアニメのいいところはレコードになることでした。当時ドラマの音楽は、なかなかレコードにならなかったのです。私の作品はレコードやCDになっているから、作品とは別に今も音楽だけ聴いてもらえます。五線譜だけ残っていても、普通の人は読めませんから。ありがたいことです。

私も子供の頃、聞いて育ちましたが、渡辺さんの曲は大人になってもメロディがすぐ浮かびます。「記憶に残る曲」を生み出すには、コツなどはありますか。

日本人にウケる音楽がどういうものなのかを考えたりもしました。卒論でそれを発表した頃、同じ大学で小泉文夫(1927~83・日本)さんと知り合いました。

彼と話すようになり、そのうち家にもたびたび行かせてもらうようになりました。後に民族音楽学者になった小泉さんは、日本人には日本人の音階があるという主義です。

私が初期からよく使っているのが二六抜き短音階、短調の五音音階です。日本の民謡、そしてアフリカ起源の音楽に似ています。またこの二六抜き短音階はアメリカのロック的でパンチのある曲になります。そのため特撮でもよく使いました。

話は飛びますが、驚いたのは、日本人に向けて作ったはずの曲がヨーロッパでもヒットしたことです。『鋼鉄ジーグ』もイタリアで大人気でした。フランスの自動車メーカーのCMに使われた曲もあります。あれは不思議でしたね。

マジンガーZなどの曲で多くのトロフィーを獲得している。

 

令和元年には永年、映画音楽に貢献したとして文化庁映画賞を受賞した。

 

作曲家になるために必要なこと。作曲の未来を考える

特撮ものの音楽にはシンセサイザーのような電子楽器を使いますよね。そういう新しい楽器を取り入れられるのに積極的だったのでしょうか。

当時はあまり積極的に使うわけではなかったですね。ただ楽器商がシンセサイザーを売り込みに来ていろいろと説明をしてくれましたので買っておこうと。

その後『人造人間キカイダー』の作曲をする時に買ってあったシンセサイザーを使ってみたら面白いと思えました。興味が湧けば(新しい楽器を試すことに)抵抗はありません。

音楽に対する好奇心や作曲のモチベーションを維持し続けるには何が必要でしょうか。

最近は音楽の勉強をあまりしていないですが、新しい音楽を聞こうと音楽番組を見ることはあります。流行りは分かりますが、今の音楽にはあまり興味はないですね。

モチベーションは頭の中にあるものじゃないでしょうか。自分の感覚は絶対に大事です。何を受け入れて何を譲らないか、具体的に意識していなくても、結局はいい曲を作るという一点でしかありません。

私は仕事以外では作曲はしませんが、仕事をもらえばどんな曲にしようか、わくわくして取り掛かります。

息子の俊幸さんも音楽の道に入られていますが、それについてお聞かせください。

自分の息子だから作曲家になるだろうと、ピアノを含めいろいろ教育していました。ただ彼は子供の頃、いったん「音楽をやるなんて嫌だ」と言い出しました。妻にも「嫌がることをやらせるのは親のエゴだから」と言われました。

ですが俊幸は、ビートルズの曲と出会って音楽がやりたくなったようです。私は「楽器は何をやるんだ」と聞いたら「ドラムをやりたい」と。そして彼はプロのドラマーになりました。

ドラマーから作曲家という流れは珍しいです。俊幸には「子供の頃もっとうまく指導してくれればよかったのに」と言われましたよ。

作曲や音楽に携わる方にメッセージをお願いします。

今、作曲家を志望する人はとても多いです。音大の卒業生だけ見てもかなりの数がいる。でも活躍している作曲家は、それほど人数はいないように思われます。作曲も厳しい世界です。

私もこの歳で頑張っていますから、皆さんも頑張ってください。

取材日:2020年2月19日 ライター:久世 薫 スチール:橋本 直貴

プロフィール
作曲家
渡辺 宙明
1925年8月19日生まれ。愛知県名古屋市出身。東京大学文学部哲学科心理学専攻卒業。 1953年に中部日本放送(CBC)制作のラジオドラマ『アトムボーイ』でデビュー。 映画やTVドラマの作曲で活躍。 1972年にTV放送が始まった『人造人間キカイダー』や『マジンガーZ』の音楽が大ヒットし、以来アニメや特撮ものの音楽を長きに渡り作曲。2019年には「文化庁映画賞」(映画功労部門)を受賞。94歳となる現在もなお、作曲家として現役である。

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