仲間に助けられてここまで来た それに尽きます

Vol.1
映画監督 樋口真嗣(Shinji Higuchi)氏
©2005 FUJI TELEVISION/TOHO/KANSAI TELECASTING CORPORATION/KINGRECORDS

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その存在を知ったのは、平成『ガメラ』。ミニチュアであるはずのフライングガメラ(後ろ足部分から火を噴いて飛ぶ形態)が、実際の空をバックに天を昇り、本当に、久しぶりに“見たこともない”映像に出会った。感動ではなく、感激した。そういう出会いに感激したのを、今でもよく覚えている。すぐにエンドロールクレジットを確かめて、「樋口真嗣」の名前をインプットしたのは言うまでもない。そんな樋口さんが、この春、監督デビューした。作品は、あの『ローレライ』。潜水艦ものかあ、樋口さんがやるなら楽しみだなあ。でも、それ以上に、監督しちゃうってことに驚いたなあ。特技監督、VFX監督だけでも充分にやっていける人でしょ。てな疑問もあるので、『あの人に会いたい』の第1回は、映画監督/樋口真嗣さんに会ってきました。

監督作品『ローレライ』が劇場で評判になっている、というのはどんな気持ちですか?

疑ぐり深い人間なんでね(笑)ふだん通りの生活をしていたら評判になっているかどうかなんてわかんないし、実は、劇場に足を運んでみても、よくわかんないんです。舞台挨拶に立てばみんな拍手してくださるけど、それは、普通しますよね。観客の反応をどう分析するか、それがまだ自分の中で確立していないんです。とりあえず、ネットなんかでは、悪口しか読まないようにしている。そっちの方が、刺激や参考になることが多いですね。もちろん、トンチンカンな批判を読めばガックリするし,褒め言葉を読むと嬉しいんですけど(笑) 怪獣映画やっている頃って「怪獣映画なのにここまで頑張りましたね」っていう評価をされていたと思う。今回は、一般映画として捌(さば)かれて評価されるんだということをつくづく感じます。

特技監督、VFX監督にとどまらず、監督をやる、というのは当初からのビジョン?

簡単に言うと、仕事がなくなっちゃったんですよ(笑)俺は、前と同じことをしたくない性分なんで、特撮監督を続けるとすると、今までと同じ事を続けなきゃならないか、あるいは今までよりグレードを下げたことをしなきゃならない。繰り返すということは縮小再生産になる、それが我慢ならなかったんです。 もうひとつは、自分の担当するショットのクオリティアップを、予算を増やす以外の方法でどう実現するかということを考えた結果でもあります。限られた製作規模の中で、カットのグレードを上げるということに限界を感じたときに、じゃあ、その前後でカットの見栄えを良くするよう誘導すればいいということに気づいた。それはどういうことかというと、一本全部やるということしかなかった。

ローレライ』は2000年の夏に、樋口さんが福井晴敏さんに「無謀な提案」※をすることから生まれた作品?

まず、潜水艦ものの企画を出してみようかというアイデアがあって、ストーリーをいろいろ考えているときに福井さんの小説に出会いました。最初から福井さんの小説を映画化するということは考えなくて、自分の考えている映画のストーリー作りに協力してもらいたくて会いに行った。(劇場売りのパンフレットには、「当初固辞した福井氏を押し切って」とありますが)いや~、固辞されてるとは感じなかったです(笑)もちろん様子は見ながらですが、毎回打ち合わせが盛り上がるんで、楽しみながら押し切ったって感じですね。 ※ 小説家/福井晴敏氏が映画の企画段階から参加。ともに原案を練り、出来上がったプロットをもとに、樋口チームは映画『ローレライ』の脚本を作り、福井氏はオリジナル小説『終戦のローレライ』を書き上げるというプロジェクト。

舞台挨拶では、「嫌いなシーンは削ったので、全部好きなシーン」とおっしゃってましたね。そんな中でも、「ここはぜひ観てほしい」というシーンをあげるとすると?

そうですねえ・・・発令所で反乱が起こるシーンですね。身動き取れない場所で敵味方がにらみ合い、動き回る。生身の人間を動かして、それをどう切り取ればうまくいくかということを手探りでやって、うまくいった!という達成感が大きかった。それは、画コンテ通りに撮れたとかいう満足感とはまったく別のものでした。ワクワクする撮影でしたね。まあ、実は、潜水艦の中で『レザボア・ドッグス』をやったら面白いのに、という発想から始まったんです(笑)

あるTV番組のインタビューで、「役者さんに演出することに目覚めた」とコメントしていましたね。たとえば特殊効果のないラブストーリーなんていう作品も、今後はありうる?

面白かったですね。自分ではまだまだと思うことの方が多かったし、もっともっとうまくなりたいと思いました。そういうことをひっくるめて「目覚めた」という言葉になったと思います。言い方をかえると、「もっとこの山を登ってみたい」と感じたということですね。「面白いものを見つけた」っていうのも近いかもしれない。 ただ、“特殊効果のない映画”は、ありえないですね。ラブストーリーはやりたいですが、“特殊効果がない”のは、いやです。好きだから、絶対入れますね(笑)得意だし好きなものだから、必ずやりたい。特殊効果を入れる企画が通らなかったら、引き受けないでしょうね。もしやったとしても、観ないですよ、自分が(笑)もちろん特殊効果のない映画は観るし、いい映画もたくさんあるけど、そういう作品は純粋に観客として観てます。観てても、ジェラシーはわかないですね。ずっと先はわかんないけど、少なくとも「樋口が人間専門の映画監督なった」っていうことはありえないと思います。

今後の肩書きは「映画監督」?

どうなんですかねえ、今日はさっきまで書籍のカバーデザインの打ち合わせしてましたけどね(笑)いつも思うんですけど、俺は映画監督は職業じゃなくて役割だと思うんです。大体、職業としてやりはじめるとしんどくなりそうで、いやですよ。

©2005 FUJI TELEVISION/TOHO/KANSAI TELECASTING CORPORATION/KINGRECORDS

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高卒→特撮の現場→自主映画制作会社→アニメ→ガメラ→ヒット映画の監督。すごいサクセスストーリーだと思うんですけど。

いやあ、挫折の連続ですよ。この間、ある雑誌で、これまでを振り返るインタビューを4時間半ぶっ続けでされたんですけど、同じ過ちを犯してる自分がいやになったばかりです(笑)たとえば20代でここまで来てたら自分でも「凄い」って思うだろうけど、気づけば30代後半、40代にさしかかってるわけで、やっとみんなに追いついたというのが実感ですよ。

『ゴジラ』の監督依頼があたったら、引き受けますか?『ガメラ』の新作はどうですか?

『ゴジラ』のお話がきたとしたら、そんな光栄なことはありません。『ガメラ』に関しては、もう卒業したものだと思ってますから。むしろ俺がそこに居座ると、出てこれない人もあると思う。もし次作があるなら、それは新しい人が手がけるべきだと思います。

樋口さんがここまで歩んできた原動力は?

仲間ですね。それに尽きます。大事な仲間に出会えたから、今ここにいる。自分ひとりで成し遂げたことなんて、何ひとつないですからね。信頼しあえる仕事の仲間と、仕事を超えてところでも交流できる。そんな仲間をどれだけ増やせるかということが大事なんだと思う。なんでもひとりでできる世の中だからこそ、仲間を、友人を大切にすることが必要なんだと思います。

ジャンルを問わず、将来に夢を抱いて頑張っている若手クリエイターがたくさんいます。彼らに向かってエールを贈っていただければありがたいです。辛口でもいいですよ。

夢かあ・・・。持ってなかったからなあ(笑)これが、「高校時代から映画監督を目指していて」というなら、「夢がかなって」というお話もできるんですけどね。俺は映画が好きで、誰よりも先に観たくて、映画の仕事をしたら映画をたくさん、タダで、人よりたくさん観られそうだなんて思ってこの世界入っちゃったんだけど、それに関しては明らかに間違えましたからね。映画作ってると、映画観られないですから。大失敗です(笑)去年なんて、劇場では3本しか観られなかったんですよ、ほんと。メッセージは、「映画観たかったら、映画作るな!」---だめ?こんなんじゃ(笑)

映画作るのは楽しいですよね?

もちろん楽しいですよ。楽しいからやってる。脱線してこうなっちゃったんだけど(笑)

Profile of 樋口真嗣

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1965年生まれ。高校卒業後に東宝撮影所にアルバイトとして入り、『ゴジラ』(1984)には造形助手として参加。その後、大阪の自主制作映画団体DAICON-FILMに加わり、『八岐之大蛇の逆襲』(1988)で特殊技術を担当。1988年には香港のゴールデンハーベストに招聘され、『老猫』の特撮を担当。帰国後、GAINAX初のテレビシリーズ『不思議の海のナディア』で画コンテ、後半では監督を担当。1992年の東京消防庁の防災映画『太陽が引き裂かれた日~東京大地震』でマルチメディアグランプリ・展示映像部門に入賞。1995年、『ガメラ 大怪獣空中決戦』で特技監督を担当、日本映画の特撮の限界を超えた精密かつ大胆な演出で注目を集め、日本アカデミー賞特別賞をはじめ数々の賞を獲得する。翌1996年、続編の『ガメラ2 レギオン襲来』と並行してテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』に画コンテ、脚本で参加。翌年の劇場版にも画コンテ、予告演出、実写パートの監督を担当する。1999年『ガメラ3 邪神覚醒』では、飛躍的進歩を遂げたデジタル映像処理技術を駆使して、さらに高密度の映像を描出した。同年、故・黒澤明監督の遺稿をもとに短編デジタルアニメーション映画『飛ぶ~こんな夢を見た』を演出。同作品は2000年シーグラフ・アニメーションフェスティバルに入賞した。2000年、盟友・原口智生監督の特撮時代劇『さくや 妖怪伝』では女優・松坂慶子を巨大化させながらも、情感あふれるクライマックスを完成させた。2001年には、鈴木清順監督『殺しの烙印 ピストルオペラ』では特撮・タイトルバック、佐藤伸介監督『修羅雪姫』では特技監督、2003年には飯田譲治監督『ドラゴンヘッド』では視覚効果デザイン、2004年、紀里谷和明監督『CASSHERN』ではバトルシーンの画コンテを担当した。

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