不安と憂鬱

番長プロデューサーの世直しコラムVol.118
番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光

一緒にバスケをやっている若い人たちからは、「櫻木さん、不安なんて無いでしょう?いいなあ」的な事をよく言われます。 「そんなことないよ」って答えますが「無いですよ~」と返ってくる。 どんだけ能天気に見えているんだろうと不安になりますね。

何となく漠然とした印象ではありますがテレビも職場も友達も「不安」という言葉と「憂鬱」という言葉を よく使うようになってきたなあと思います。

「不安」や「憂鬱」に関しては、長い時間めちゃくちゃ研究されていてこのキーワードで検索するだけでいろんな方の研究がネット上で現れます。 それらをじっくり読んでいってもなかなか今の自分の気分にフィットする様な事は書いてありません。 ネット上には「不安を解消する10の行動」みたいな種類のHPがたくさんあって、いろんな不安や憂鬱に対処する方法があるけれど、最後には「それでも不安なら心療内科にいきましょう」と書いてあって声を出して笑ってしまう。

そもそも、人生の話だからそんなに簡単に書いてしまえるような話ではないんだけど、ものすごく身近なところで考えるといろんなことがわかります。

哲学や心理学、映画や戯曲まで研究され尽くした永遠のテーマみたいな物でしょうが、自分なりに「不安と憂鬱」のことを考えていくとまず、「不安」と「憂鬱」は似ているようで決定的に違うことに気付いた。

その決定的な違いは「不安」は自分の未来にあり、「憂鬱」は自分だけの過去にあるという感じがします。

「不安だなあ」と感じることは当然のことながらまだ起きていないことがどうなってしまうのか?という怖さです。「憂鬱だなあ」と感じることはその「不安」が現実のものになって、自分の愚かさを露呈して、そのことを思い出したくもないけど頭から離れない。ということなんでしょう。

映像を作る仕事をしているので、仕事柄、新しい表現や驚くような技術を毎日探して暮らしていますが、ある時期からびっくりするような映像表現がなくなってしまいました。なんでだろう?感受性が鈍っちゃったのかなあ?と思っていました。でも、よくよく考えるとそうじゃない。

NYのビルに飛行機が突っ込んで爆発して、その後、ビルが崩れ落ちる映像。東北の地震の後の津波が街を押し流していく映像。熊本城の瓦や石垣が崩れ落ちる映像。現実に起きたこういうことのリアルな映像が自分の想像力を超えてあまりに凶悪なものだったので、人が娯楽で作るCGなんてへでもなくなっちゃったんだと思います。 特にハリウッドの映画などで、CGの津波がニューヨークを襲うとか、実はそういうものを経験したことのなかった人類からすると「不安」だったのでしょう。そして、起きてしまった現実の災害やテロ行為のリアルな映像と、その現実の被害の大きさとその記憶やなすすべのなさがまさに「憂鬱」だと思うのです。

最近は、現実に起きることが人間の想像を超えてひどくなってきました。地震、津波、台風、洪水、大寒波。『シンゴジラ』でも描かれていましたが、自然災害の前に人間があまりにも無力だということが本当にわかってしまった。ということが、大きい気分での憂鬱だし、それが次にいつ起きるのか?ということが大きい不安だと思うのです。危険な時代に入ってしまいました。

そういう、本当に死んじゃうかもしれないという大きい不安と憂鬱の中でのストレスが身近なところでいろんな形で発散されて人間がどんどん愚かになっているような気もします。それが今を包み込む閉塞感か?不安な時代の憂鬱な人間。

他に身近な不安もいっぱいある。 引退してからちゃんと年金をもらえるのか?とか、原子力発電は本当に無くなるのか?とかいろいろかんがえていくと辛くなってきちゃうので、自分ではどうしようもない不安については考えることをやめようと思っている。

物心ついてからこれまで不安がなくなった日は1日もない。一瞬忘れることはあっても不安というものは無くならないものだ。そのことを自覚するだけでも随分気が楽になる。不安のない人間なんてどこにもいないからだ。

自分がやってしまったことからくる憂鬱も増える一方で減ったりはしない。それが生きているということなんでしょう。自分を恥じながら生きる。憂鬱なことが増えるほど謙虚になれたりもするので、嫌な経験は大人になるために大事なものかもしれないし。

生きているということが不安と憂鬱だらけなら、自分で自分を殺しちゃった方が楽になると考える人も多い。その気持ちはわからなくもない。

そんな中で自分を救ってくれるのは、単純に「いいことがあったなあ」という思い出だけかもしれない。俺にはいいことがあった。だからこれからも、もっといいことがあるかもしれない。と思って、いいことがあるようにと頑張って生きるしか無いんじゃないか?

漠然と頑張っていたらいいことがあった。じゃあダメで、こういう風にいいことが起きるように頑張ってみる。という方が正しいのかもしれない。何が不安なのか?何が起きたら嫌なのか、ちゃんとした自分の不安を自分の憂鬱から導き出して認識している人にはいいことがあると思う。

そうじゃないと不安に魂を食われて憂鬱な人生を送ることになるんじゃないだろうか。

Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)

プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。


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