「大学を卒業してからじゃ、そんな感性は失くなってしまうし、どこかの会社に勤めて、そこの歯車になっては、なおさらだろう。」

Vol.51
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

人生は一度だ、この世以外に何がある、人は一人で耐え、一人で笑い、生きるのだ、と思わせる映画は、確かに気が安らぐのだった。主人公も孤独だし、誰もがそうなんだと気づかせてくれる。そんな装置はスクリーン以外にないと、ボクはそう思ってきた。孤独者、辺境者、社会の周縁に生きる者、管理社会から落ちこぼれる者、寄る辺のない者、異端と差別される者たち、そんな人間たちをもっと探そう、いや、そんな人間が一人で奮闘し、つまり、目の前の障害を乗り越え、敵を蹴散らし、権力と闘い、罪を背負いながら、生きざまを晒しながらも大活躍する、そんな主人公を追い求めながら、自分もそんな映画を撮ろうと思い始めたのも、高校を出た頃だった。

大学を卒業してからじゃ、そんな感性は失くなってしまうだろうし、どこかの会社に勤めて、そこの歯車になっては、なおさらだろう。なるだけ早く、映画を撮ってみたい、そう思い始めると居ても立ってもいられなかった。
アメリカの若い作家が今までにない光と影の画面作りをするニューシネマ群が、ボクをそう奮い立たせるのだった。

孤独なタフガイ、孤高のアウトロー、孤立無援のヒーロー、そんな映画ばかりを追っていた。『ゴッドファーザー』(72年)は、イタリアのシチリア島からニューヨークに移り住んだヴィト・コルレオーネのマフィア一家をとらえ、その孤独と非情を描いた。一家の顧問役がハリウッドに飛んで、大物プロデューサーが飼い育てた種馬の頭首を切り、血まみれのままでベッドに放り込み、脅しをかける場面は19歳の映画少年には衝撃だった。いや、世界中がショックを受けたのだろうが、マフィア稼業というのはここまでして仲間に義理立てするものなんだと感心して、その夜は寝つけなかったのを覚えている。一家の暴れん坊の長男ソニーが抗争中に、妹のために一人で行動した時、ハイウェーの料金所で敵の殺し屋たちに忽ちにして機関銃でハチの巣にされる場面は、見ているこっちまで巻き沿いを食らいそうでとても痛々しく、それも寝つかれない理由だった。命懸けで生きるというのは、こういうことかと初めて教えられたようだった。三十過ぎの若い監督のフランシス・F・コッポラは雑誌で、「これはアメリカの資本主義と階級についての映画だ」と語り、ボクは頷くばかりだった。ラストは、ヴィトの三男坊がボスの二代目を継ぎ、妻に嘘をついて強欲と暴力の国で生きることを覚悟するところで、幕となった。声も出なかった。一家の悲哀の大叙事詩と銘打った“パートⅡ”という聞き慣れないタイトルが現れるのは3年後だが、それより何より、ボクは生存競争に明け暮れる彼ら一家の一員になったつもりで一緒にスパゲティを食べ、闘った気でいても、押し流されまいと踏んばるだけで精一杯だった。これを映画と呼ぶなら、今までに見たのは何だったんだろう。年の暮れの街角に、『仁義なき戦い』(73年)のポスターを見つけた。それには、あぶれ者の熱や覇気が感じられて、古臭い邦画は敬遠していたが、これだけは見逃すまいと思った。

そんな頃、格別の爽快感を与えて、ボクを勇気づけてくれたニューシネマのスターは、やっぱり、あの孤高の人、スティーブ・マックィーンだ。ほぼ同い歳のC・イーストウッドが演じた『ダーティーハリー』(72年)には孤独感は漂っていなかった。所詮は権力側の人間だからか。ハリーにラストで撃ち殺されたあの変質魔の方が孤独で必死に生きていたようだし、ハリーは警官バッジを池に投げ捨てて初めて、孤独者になれたように思えたが。

中学生の時に見たマックィーン主演の『ネバダ・スミス』(66年)は反体制的で私小説風なニューシネマが現れる前の大河ドラマのような西部劇だが、とてもよく出来た物語で、孤独者、辺境の民が主人公だった。19世紀末アメリカのネバダ州の片田舎で、白人男とカイオワ族のインディアン女とその一人息子が貧乏ながら平和に暮らしてるところに、3人の流れ者が来て、両親は惨殺されてしまい、その息子は復讐を誓い、旅に出る。何年もかけて一人一人探し出し、追いつめる。成人するまでに何十という仕事につき、一人で放浪していたマックィーンでなければ、あのしみじみした表情は出せなかったと思う。

そして、テレビドラマの『拳銃無宿』や、『大脱走』(63年)、『ブリット』(68年)などファンを愉しませてきたマックが、S・ペキンパー監督と組んだ傑作が『ゲッタウェイ』(73年)だ。ボクはまた打ちのめされた。主人公は刑務所に収監中のならず者だ。惚れた女とどこかでひっそり暮らしたがっている。そのために政界の悪党と取引して、最後の銀行強盗をやる羽目になる。でも、悪党から逃げないことには自由はない、過去から今日から逃げないと明日はないのだ。主人公は女と逃亡する。こんなカッコいい話が、アメリカ映画協会が選ぶ100本の中に入っていない。アウトローがメキシコ国境を越えて行くハッピーエンドだからか。階級や人種差別のアメリカに自由はないと、ペキンパーとマックが言ってるようだった。ボクは二人に異議なし、だった。

ニューシネマの時代は、映画にも張りがあって、それらは社会に怒り、毒を吐いて、自由と解放を叫んでいた。ボクは、ますます自分で映画を撮りたくなった。

(続く)

≪登場した作品一覧≫

『ゴッドファーザー』(72年)
監督:フランシス・フォード・コッポラ
製作:アルバート・S・ラディ
原作:マリオ・プーゾ
出演:マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン 他

『ゴッドファーザーPARTII』(75年)
監督:フランシス・フォード・コッポラ
製作:フランシス・フォード・コッポラ
原作:マリオ・プーゾ
出演:アル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン 他

『仁義なき戦い』(73年)
監督:深作欣二
原作:飯干晃一
脚本:笠原和夫
出演:金子信雄、木村俊恵、松方弘樹 他

『ダーティーハリー』(72年)
監督・製作:ドン・シーゲル
脚本:ディーン・リーズナー、ジョン・ミリアス、リタ・M・フィンク、ハリー・ジュリアン・フィンク
製作総指揮:ロバート・デイリー
出演:クリント・イーストウッド、レニ・サントーニ、アンディ・ロビンソン 他

『ネバダ・スミス』(66年)
監督:ヘンリー・ハサウェイ
脚本:ジョン・マイケル・ヘイズ
原作:ハロルド・ロビンズ
出演:スティーブ・マックィーン、カール・マルデン、ブライアン・キース 他

『大脱走』(63年)
監督:ジョン・スタージェス
製作:ジョン・スタージェス
原作:ポール・ブリックヒル
出演:スティーブ・マックィーン、ジェームズ・ガーナー、リチャード・アッテンボロー 他

『ブリット』(68年)
監督:ピーター・イエーツ
製作:フィリップ・ダントニ、ロバート・E・レリア
原作:ロバート・L・パイク
出演:スティーブ・マックィーン、ロバート・ボーン、ジャクリーン・ビセット 他

『ゲッタウェイ』(73年)
監督:サム・ペキンパー
脚色:ウォルター・ヒル
原作:ジム・トンプソン
出演:スティーブ・マックィーン、アリ・マッグロー、ベン・ジョンソン 他

出典:映画.comより引用

※()内は日本での映画公開年。

 

●映画『無頼』

『無頼』はNetflixでも絶賛配信中、セルレンタルDVD も発売中。

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
https://www.izutsupro.co.jp

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