「井筒はメジャーに心を売ったか」と書かれたりした。もう一人のボクは「そう、体は売ったよ、でも、心までは売っとらんわ」と呟いていた。

Vol.39
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

1985年の夏が過ぎて、『二代目はクリスチャン』は、原田知世主演の『早春物語』と併映で、9月中旬に東宝の洋画系チェーンで角川春樹事務所10周年記念作品と銘打って封切りを待っていた。ボクの方は、全国主要都市への宣伝キャンペーン行脚は当然のこと、都内のどこかのデパートの屋上の催しにまで駆り出されて、その度に、芸能レポーター風の司会者から「カントク!最後に!この映画の見どころを教えてください」「えー、全部です」「でも特に力を入れたところは?」「まあ、殴り込みに行くクライマックスですか」とバカみたいな問答をさせられて、ウンザリだったが、何よりも角川事務所が社長の号令で前売り券を大量に売りまくったお陰か、この二本立ては25億を超える大ヒットだった…ようだ。

「10代20代の客が殆どで、結構、ウケてます」と角川の宣伝部から聞かされても、ボク自身はどうでもよかった。主演した志穂美悦子の芝居はかなりオーバーだし、ヤクザの若ぼん役の岩城滉一の関西弁はなってないし、県警刑事の柄本明のギャクは空回りが多いし、室田日出男も気分過剰で何を喋ってるか聞き取れないし、かたせ梨乃はもの足りない。何より、中身がお伽話以外の何でもないし、監督なりのテーマ(作家の主張)なんて元から何一つ用意できていなかったことも確かだった。どんな映画も、作家としての言い分をしっかり持たないと、興収が何十億と上がろうが結局はロクなもんじゃないなと反省した。当たらなくてもいい、前売り券もどうでもいい、自分の映画じゃないものを撮ってどうするんだ、カネがもらえたらいいのか。芸能誌が「ラストの殴り込み場面は息もつかせない迫力」と騒いでくれたらいいのか。ピンク映画の『肉色の海』や、『ガキ帝国』の気分に戻る気はないのかと、もう一人の自分が、ボクを叱咤していた。そして、週刊誌の映画批評ページでも匿名だが、「監督はメジャーに心を売ったか」と書かれたりした。もう一人の自分は「そうや、体は売ったよ、でも、心までは売っとらんわ」とボクを激励していた。

 

東映撮影所を去ったボクの赴任先は、すぐ近くの太秦大映撮影所のスタッフルームだった。撮る気分も何もかもゼロにしてしまわないと、『犬死にせしもの』なんていう終戦直後の瀬戸内海を舞台にした海賊アクションなどに鞍替えできるわけがないか。手元には脚本の第一稿が手元にあるだけで、先ずはその改稿作業からだった。東京から、大映の企画部と現場プロデューサーが京都の旅館に現れて、「10月下旬にはクランクインしたいので」とか、「このままの脚本じゃ予算が2億超えてしまうから」「船同士の海戦場面を1回戦分減らして2回にしてほしい」と注文をつけ、「またシナリオを一から見直していじるとなるとライターを東京から呼ばなきゃならんし、それも時間がかかりそうだし、助監督と一緒にぱっぱと直してよ」と言うだけ言って引き揚げていった。

 

つかこうへいの時と同じで、また演出部で手直しだ。せめて、2週間ぐらいゆっくり酒を飲みながら皆でわいわいがやがや本直しができないのかと思ったが、無理だった。予算よりも撮影スケジュールが押し迫っていたようだ。

仕方なく、プロデューサーからのシーン削除の腹案を元に、ボクの旅館部屋で、助監督と2晩ぐらいでシーンの切り貼り作業をした。助監督はシナリオが書けないと監督にはなれないといわれるが、書くより、巧く端折る能力が先だ。書かれた場面を縮めて、台詞を切り捨てる。それが巧みな者が生き残って職能監督になるのだ。しかし、新しい台詞を一行でも書けない者は、作家にはなれない。そんな話をしながら、封切られたばかりの『台風クラブ』の相米(慎二)組から駆け付けてくれたセカンド助監督と二人で、元のシナリオを切ったり貼ったりした。ボクはシナリオなるものを自分で一から一本も書いたことがなかった。それを始めるのは、10年後の『岸和田少年愚連隊』(‘96)からだ。

京都太秦の大映撮影所は(今は跡形もないが)、ボクが生まれた頃に撮った『雨月物語』(‘53)や『西鶴一代女』(‘52)の溝口健二監督がいた場所だ。門から入ってすぐにあるステージは「これが当時は東洋一の広さのサウンドステージですわ」と、勝プロから出向してくれた大先輩の制作担当の足立さんが案内してくれた。その一隅には、60年代の特撮映画の残骸、5メートルの大魔神の立像が、「悪さをするなよ」とばかりにボクを見下ろしていた。

足立さんが、「ホンはもう上がりでしょ? ホンなんか急がんでも、後でおいおい、好きに直したらよろしいやん。うちの勝新(勝新太郎)なんか毎日、直してましたよ。それより今晩、何喰います?スッポンでも行きまっか? これから冬の海で撮るんやし、力つけてもらわんと」と言った。まさに“活動屋、ここにあり”という頼もしき人物だった。

『無頼』は、7月9日から、秋田「御成座」・宮城「フォーラム仙台」で愈々、公開が始まります。監督挨拶トークショーも有り。

映画『無頼』公式サイト

 

映画『無頼』予告編動画

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。
在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。

1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。

1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。

上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE https://www.izutsupro.co.jp

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