なんで勉強しなきゃいけないの?

番長プロデューサーの世直しコラムVol.78
番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光

大学入試センター試験を廃止にして、到達度テストを導入しよう という議論がなされているらしいです。

高校の教育内容を反映させ、大学教育に必要な能力を測るためには一発勝負の選抜ではなく、複数回受験できる仕組みが望ましい。到達度テストは、大学側には年1回のセンター試験に比べ、受験生の学力を正確に把握できるメリットがある(yahooニュースより

と書いてある。 いろんな議論がこれから起きるのでしょう。 ただ、なんか、とても大事なことがすっぽり抜け落ちている気がするのです。

入試の方法を議論してばかりで、 なんで入試なんてものがあるのか? なんのために高校、大学で勉強をしなきゃいけないのか? 誰もそのことに言及しようとしないのが不思議なのです。 大学に合格すればそれでいいのか?ってことです。

勉強をしたくなかった中学生の頃、まじめに先生に聞きました。 「なんで勉強なんかしなきゃいけないんでしょうか?今やっていることは世の中に出てなんか役に立つんですか?」 すると 「そんなことは高校にちゃんと合格してから考えなさい」 という答えがかえってきました。 高校生になってもまだ勉強が嫌いだったので、また、先生に聞いてみました。 「なんでお勉強を?」と。 答えは「大学に入ってからゆっくり考えなさい」でした。

聞く人を間違えたのでしょう。

<いい学校に入って、いい会社に就職する> それ以外の人生の価値観を、大人が子供に提示できないでいます。

だから、未だに「お受験」なんていって、小さい子供に通り一遍の建前を「物わかりのよさ」として押し付けて、一生懸命トレーニングしています。その挙げ句、昨今では「高学歴プア」なんて現象まで起きて、一流大学の大学院を出ても就職先のない人が出てくる始末。学歴を追求するあまり、人間的な魅力の乏しい「勉強しかできない人」を生んでいるのも事実です。

世の中には、この人間は価値があり、この人間は価値がない。という判断をしようとする癖があります。入社試験なんてその典型ですね。そして、その価値判断の最も明確な基準として、学歴が用いられているのが現状です。

しかし、学歴で人間を判断するということが間違っているとは一概にいえません。 受験のために勉強し、有名人気大学に入る。ということは並大抵の努力ではありません。「いい大学に入る」ということは、「社会に出てもいろんなことにレベルの高い努力ができる。」というその人の能力の判断にもなります。

また、現時点の社会システムでは、いい大学に入る人間は、しっかり偉くなっていく。という現実があります。 大学時代に、利害関係のない状態で出会った人は本当の友達であり続けることができる。そのつながりは、将来、別々の仕事で再び出会ったときにものすごい力になるときがあります。それを「コネ」といいます。 いい大学で得た友人関係は、より有力なコネになり得るわけです。

こういうシステムや考え方は経済成長を前提とした社会ではとても有効に機能していました。しかし、社会構造の変化によって、昨今では機能不全を起こしているようにも見えます。

そもそもペーパーテストだけでその人の総合的な善し悪しがわかるのでしょうか? 記憶力や処理能力はわかるかも知れませんが、もっと大切な想像力や問題解決能力とはほとんど無関係だと思います。逆に言うと<入学試験というたった一回の試験の結果が生涯の実力を保証するものではない>ということぐらい、誰でもわかっています。ただ、<少なくとも一回は努力と実力を証明できた>という実績は残ります。

そうやって考えていくと、何のために勉強をするのか? 何のために受験をするのか?ということの答えが見えてきます。

何のために勉強しなきゃいけないか?の答えは

「自分が将来、仕事を選ぶときに選択肢の幅を狭めないため」ですね。きっと。

大学を出ていないと得られない資格が必要な職種。大学卒が採用条件の企業。 そういう仕事がたくさんあります。やりたいと思った時に出来ないよりは、いろんなことをクリアしておいた方がチャンスは増えるでしょう。ただそれだけなんです。

まあ、チャンスと言っても保険に近い考え方なんですけどね。本当は、寝ても覚めてもこのことをやってられる。と言うような職業を見つけて、たどり着いて、食べていければそれが一番。それを見つけられた人はいい人生なんでしょうけど。 本当に一つのことを死ぬまでやる気があるのなら、そしてそれが大学が必要のない世界なら、大学なんて全く無意味ですよ。

それに、「その大学に行くとやりたいと思った研究がすごいレベルでできる。」「有名な教授がいてそのゼミに入りたい。」「すごい人材を輩出している。」といった明確な目的がある場合も、「なんで勉強するのか」がはっきりしていて、すがすがしくこの問題とは全く別の話です。

ただ、勉強する理由も分からないまま受験勉強を迎えた子供たちには 「受験勉強は実生活ではあまり役に立たないクイズでしかないけれど、そのクイズを解く努力をしているかどうか、やっている努力の跡さえ見せられれば、将来の仕事の選択肢が減りにくいですよ。」 ということをインフォメーションするべきだと思うのです。

そしてちゃんと親や先生がしっかり伝えなきゃいけないことは、 「その受験勉強で出た結果が、その子の人格のすべてではない」ということです。 自分が好きなことで、世の中の役にたつことをやれて食っていければいい。 警察に捕まらなくて、税金を納めてさえいれば何でもOKだ。 ということを前提に、勉強はしないよりした方がいいよー。ということですね。

子供の頃は受験に成功することが人生のすべてのように教えられて過ごします。 その子が将来何になろうとおかまいなしです。 何をして食っていくかよりどこの学校に入って卒業したかの方が大事みたい。 運動部で活躍していても、「けがしたらどうするのよ?勉強しなさいよ」と。 いい学校を出て、いい会社に就職したほうがいい、という前提にとらわれているから、子供がやりたいと言った未来を、否定的な感情でつぶしていないですか?ということです。

子供に「なんでもいいから勉強しなさい」という風に言わないで、「なんで勉強しなきゃいけないか」をちゃんと説明するべきだと思う訳です。 本当に大事なことはお勉強じゃないんだけどね。と大人が子供にいうべきです。 勉強さえちゃんとしていれば何でもいいという風潮はやめてしまえばいい。

その上で、受験とはこんなことだと議論すべきであって、「受験が一発勝負だと苦しいから複数回の試験で受験生の学力を把握する」とか言ってないで、子供たちが何をして生きれば頑張れるか?という観点から制度を見直すべきではないでしょうか? 外国の大学に行く方法を明示する、選択を誤った場合にやり直しがきく仕組みを作る、英語の試験はTOECに絞る、など方法は色々あるでしょう。 チャンスを増やして、チャンスのつかみ方をちゃんと子供に教えるべきだと思うのです。

そのためには親や教員も相当「勉強しなきゃいけない」のです。皮肉なことに。

Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)

プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが、矢面に立つのは当たり前と仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。


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