「ボクにとっては、因縁の東映京都撮影所での初仕事だった。」

Vol.035
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

‘85年の初夏、京都の東映撮影所に乗り込んで、ボクの寝泊りに用意されたのは撮影所の正門から目の前の和風旅館だった。ここなら毎日、撮影開始時間のぎりぎりまで寝てられるかと思うと、気が楽になった。東京から呼ばれる「水戸黄門」のゲスト俳優や、「暴れん坊将軍」などのテレビドラマの中堅監督らが利用してる宿だとは聞いていた。

宿の若い女将が「おこしやす。これから何か月も長丁場、大変どっしゃろ。お部屋は二階の奥の、角部屋ですよって、狭いお庭ですけど、見下ろせてよろしおっせ。お風呂は一階で、岩風呂ですよって、いつでも入れますし、どうぞ。カントクさんって、もっと歳いってはると思てましてんわ、えらい若いしビックリしましたわ」と愛想良く迎えてくれた。なんか、一端の職人監督になったような気分だった。着替えの衣類は東京から宅配便で届いていた。これからは当分一人所帯だし、まあ、朝帰りもあるか知らないし、誰か引っぱり込んで宴会になるかもだが、好きにさせてもらおうと思った。

岩風呂に入ってサッパリしたら、無性に酒が飲みたくなって、撮影所が用意していた「井筒組」スタッフルームに戻り、年輩の制作担当者に「どっか、そこの大映通りでも呑みに行きませんか?ええ呑み屋教えといてほしいし…」と誘ってみた。「うわ、もうですか、まだ4時過ぎやし、これでも一応はサラリーマンやし、オレだけでお供すんのもなんやし、制作も助監督も号令かけますわ。打ち合わせちゅうーことで」と。京都の制作部さんは律義なものだった。

正門から通りに出ると、喫茶店から、ジャージ姿でちょん髷をつけたままの大部屋俳優ら何人もが、将軍の髷をつけた松平健さんと一緒に出てくて、ボクにも「お疲れさんです」と挨拶して過ぎて行った。こっちまで代官様になった気分でむず痒かったが。

実は、京都東映には、十年近く前の‘76年に、初めて訪れたことがあった。まだピンク映画もどきを作ったばかりで、お金もなくアルバイトもせず、ただ何か次のことをしたいと大阪や東京をうろついていた23,4歳の頃だ。『ガキ帝国』の元ネタになった『ガキの愉しみ』と題名をつけたペラ稿で200枚もある脚本原稿を携えて、この撮影所の某プロデューサーに、自分で書いた脚本を売り込みに押しかけたのだ。勿論、その中年の制作者とは何の知り合いでもなく、電話を一度かけて話をして、それで会ってくれるというので出かけて来たわけだった。

応接室に通されて、その制作者はペラ稿を10分間ほどペラペラとめくって読んでくれたまでは良かったが、ボクが「うち(東映)はね、大衆娯楽映画を作っている会社なんでね、こんな、キンとか朴とかいう名前の特別な人物が出てくるような話は、お客には見せられないのよ。色々と思いもあるんだろけど、なんせ、映画は一般大衆に見せる娯楽じゃないとね・・・そんなこともよく研究してもらって、また将来に何か書きたいなら、映画の勉強もちゃんとしてからやろうね。」と言い、そのペラ稿を両手で突っ返したのだった。電話一本で押しかけてきて、「できたら、この企画をカントクしたいんです」と冗談みたいなことを平気で言う、この得体の分からない青二才を前に、その制作者はなるだけ早く追い返してしまおうという顔つきだった。

 

初めて押しかけた撮影所の門を去った時、ボクはあまりに悔しく、虚しくて泣きそうな気分だった。京都駅行きのバスを待つ気もなく、太秦の地から早く消えてしまいたかった。鉛色の空を見上げて歩きながら、その時、ボクが心に誓ったことは一つだった。「よっし、必ず、あの中年の制作者だけに見せる“映画”を作ってやる。あの男にだけ見せてやる」と。映画文法を無視して書いた粗い脚本だったので、燃やしてしまおうかとも思ったが、しばらく実家の押し入れの中で眠らせることにしたのだ。

 

その時以来の京都撮影所への単身赴任だった。「何かやりにくいことが起きたらいつでも角川事務所に連絡下さい」と東京からお墨付きも貰っていた。どんな問題が起きようが好きに暴れて、思いつくまま撮ってやれ。誰もが気分の高揚する笑って泣けるヤツを撮ってやろうじゃないか。日が暮れてもいないうちから、制作部と呑むのは気分が良かった。

制作部は『二代目はクリスチャン』の日程を決めていた。撮影は6月下旬から予備日休日を入れて55日間の予定で、編集と仕上げは8月の中旬、お盆明けだった。映画屋に盆も正月もないが、徹夜続きの突貫工事になるわけでもなく、現場制作費も2億円以上はあるし、焦らずに作れそうだった。

 

もしも、10年前の中年制作者に出会ったら、「『ガキ帝国』は見ましたか? 今度は朴もキンもいるかも知れないやくざコメディを作ります」と言ってやろうと思ったが、とうとう出会わずじまいだった。

 

 

『無頼』は全国地方で順次公開中です。

熱かった昭和時代にタイムスリップする“ヤクザ映画”です、『二代目はクリスチャン』とは真逆のリアリズムを味わってほしいです、ぜひ、皆さん、劇場へ。

映画『無頼』公式サイト

 

映画『無頼』予告編動画

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。
在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。

1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。

1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。

上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE https://www.izutsupro.co.jp

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