「新春特別編おやじ放談!?」 ~私と音楽との出会い!~

Vol.19
株式会社フェローズ マーケティング セクション 兼 アニメセクション アドバイザー シニアプロデューサー
映像業界40年 おやじプロデューサーのひとり言
関田 有應

こんにちは。

フェローズ マーケティング セクション 兼 アニメセクション アドバイザー

シニアプロデューサー 関田有應(せきたゆうおう)です。

 

2021年1月、19回目のコラムは番外編。

新春特別編おやじ放談!?

「私と音楽との出会い!」をお話をさせて頂きます。

 

音楽は、私の人生にとって切っても切れない欠かせない大切な存在です。

私が音楽を好きになり、音楽プロデューサーになるまでの音楽との出会いのお話をさせて頂きます。

 

私は最初から、音楽プロデューサーを目指していた訳ではありません。

番組プロデューサーを通して、音楽プロデューサーをさせて頂くチャンスに巡り合ったというのが、一番適切な言い方です。

 

私の母は活け花作家であり、造形作家です。

母は私に色々な情操教育を行い、モノ心ついた頃には、絵画教室、ピアノ教室に通っていました。

絵を描くのは好きでしたが、ピアノはあまり好きではありませんでした。

ピアノ教室の先生からは、私の両手の手の甲に十円硬貨を乗せて、落ちないように弾く!

という指導をされていました。

硬貨を落とさないようにピアノを弾く。

これが実は難しい。

まだ、やっと、「バイエル」を引き始めた4歳児にとっては、弾くことに意識をもっていくのか、

手と指のポジションを意識ながら十円硬貨を落とさない事を意識しながら、

ピアノを弾くのか。そんな事わかるわけでもなく、

ともかく十円硬貨を落とさないようにピアノを弾く。

ただ、それだけでした。

正直、ピアノ教室に行くのが嫌でした。

絵画教室に行くときの私と、ピアノ教室に行くときの私とでは、たぶん態度が違っていたのでしょう。

ある日、母から「ピアノ教室は通わなくて良いから、家のピアノで練習しなさい」そう言われました。

「翌週からピアノ教室に通わなくてもいいんだ!」子供心ながら肩の荷がおりたような、安堵の気持ちになった事を覚えています。

 

モノ心付いて、あの時の事を母にたずねた事があります。

母がなぜピアノ教室に私を通わせたか。

それは「ピアノを弾く事から音感を養い、感覚、感性をみがく」という教育方針で音楽に触れ、

演奏する楽しさを知ってほしい、そのような思いだったと話してくれました。

また「ピアノ教室での教え方には不満があった。初めから技術を学ぶのではなく、

ピアノを弾く事の楽しさや音楽の素晴らしさを知って欲しいからピアノ教室に通わせた」

それが母の情操教育だったのでしょう。

ピアノ教室をやめてから私は家のピアノを弾いていました。

音を出すのが、ピアノを弾くのが、楽しい時間になりました。

 

中学生になり、時はフォークソングブームの真っ只中。

学校なのにギターを持ち込んでいる先輩たち。

休み時間は、各クラスからギターを弾く音や、一緒に歌っている同級生や先輩がいました。

 

私の通っていた中学校には、八ヶ岳・清里に寮があって、毎年5泊6日の登山合宿に行きます。

合宿中、朝から夕方までは山登りを行い、野生の草花の観察や、山の地形、気象研究などの郊外学修を行い、

夜はキャンプファイヤーです。

1学年上の先輩たちが引くギターで生徒みんなが歌を歌う。

ギターを弾く先輩たちはデニムのオーバーオールに皮のサンダル。

そして革製のサンバイザーをかぶるスタイル。

60年後半から70年代前半のファッションです。

 

本当にカッコ良かった!

憧れた!

2年生になったら、私がオーバーオールに皮のサンダル・皮のサンバイザーでギターを弾く!

そのことばかりを考えて、それから毎日ギターの練習をしていました。

 

それともう一つ、強烈な私と音楽との出会いがあります。

14歳の夏。

やはり時はフォークソングブームの真っ只中!

いろいろなバンドの音楽を聴きましたが、私には何か物足りない。

しっくりこない。

 

友達が借してくれた1枚のLPアルバムレコード!

これが将来にわたり、私の音の世界の決め手となる音楽との出会いです。

 

せっかく借してくれたレコードです。

翌朝、学校に行く前に聴こうと思い、眠い目をこすりながらレコード針を落としました。

 

衝撃が走りました!!!

こんな素敵な凄い音楽の世界があるんだ!

血が騒ぎました!

猛烈に興奮しました。

 

かっこいい!!!

 

小坂 忠「ありがとう」1971年10月25日 日本コロムビア Mushroomレーベル

 

日本語ロック・ポップスのアルバムです。

参加ミュージシャンは、細野晴臣さん、鈴木茂さん、松本隆さん、松任谷正隆さんと、

ライナーノーツを改めて読み返すと、日本のロック・ポップス界の大御所の皆さんのお名前が連なっています。

またピアノで荒井由実(松任谷由美)さんが2曲参加されています。

当時はまだ大学生だったはずでスタジオミュージシャンとしてのデビューアルバムだと思います。

作詞・作曲はアルバム9曲のうち3曲が細野晴臣さんで6曲が小坂忠さんです。

 

中学1年生の私には衝撃的な音の世界でした。

それからはレコードが擦り切れるくらい何度も何度も聞き返し、

細野さんと小坂さんが弾くアコースティックギターのアルペジオのコピーです。

ちなみに今でも弾けます。『春が来た』B面1曲目!完コピしました!

 

そんな、日本のロック・ポップスの源流のアルバムと言えるアルバムです。

その後、15才の時に祖母からプレゼントされた「James Taylor『One Man Dog』」を聴き、

再びショックを受け、さらに18才の夏「Sugar Babe SONGS」を、

私の音楽の師から聴かされ、今までにない強烈なインパクトを受け18才の自分にとっては、

これ以上フィットする音楽は無いくらい、感覚・感性を刺激されました。

そして自分の好きな音楽ジャンル、自分の音楽性、音楽領域をはっきりとつかみ取ります。

 

話は13才の自分にもどしますが、私の音楽への世界がこの1枚のアルバムからの影響を受けて始まりました。

最初はキーボードでしたが、次にギターになり、大好きな細野晴臣さんが元々ギターだったのが

「ハッピーエンド」結成にあたり、ベーシストになったという事を、

「ミュージックマガジン」を読んで知り、憧れからベーシストになりました。

 

中学、高校、大学と音楽活動は続き、大学時代はバンド活動に没頭する毎日。

学校とバイトとバンド活動というローテーションでの生活の日々を、大学卒業まで過ごしました。

周りの仲間は、私が音楽の世界に進むのではと思っていたかも知れません。

その頃の私は、今でいうライヴツアーに助っ人ベースで参加したり、

ディスコ(歳がバレますね!)でベース弾きのバイトをしたり、アコギの弾き語りをしたりといった活動をしていました。

しかし、そんなに簡単にはミュージシャンにはなれない。

それが現実でした。

だったら別の道でもやはり好きだったテレビの世界で制作を行う事を仕事としようと思い、

ミュージシャンとしての人生を選ばず、番組制作(テレビマン)の人生を選びました。

それが社会人としてのスタートです。

 

そして40年間、プロデューサーを生業としてきた私のクリエイターとしての人生に、

音楽は欠かせないものになり、また音楽との出会いや思いが、

私が手掛けた多くのテレビ番組やアニメ作品に大きな影響を与えたという事は言うまでもありません。

 

子供の頃に影響を受けた音楽の世界を、大人になって社会人となり、

映像・音楽プロデューサーとして40年間生業にしてきた、私と音楽との出会い。

 

出会いを大切にし、自分の好きなことを仕事に生かし、自分の人生を豊かなモノにする。

今の仕事にもつながっています。

 

私のコラムの写真はベースを持つ自分です。

私そのものでしたので、コラムの写真にさせて頂きました。

もし、4歳の時に母が強制的にピアノ教室に通わせていたら!

今のような音楽に関われる人生では無かったのかもしれません。

コラムの写真も変わっていたかも。

 

クリエイターとして歩み始めたアシスタントプロデューサー君。

自分の好きなことを見つける。

素晴らしく楽しい事です。

人生が豊かになります。

志を高く持ち、自分の選んだ道を迷うことなく真っ直ぐに進んでください。

そして素敵なプロデューサーになってください。

「がんぱれ」

先輩シニアプロデューサーとして心より願うばかりです。

 

新春!特別編おやじ放談⁉

「私と音楽との出会い!」

ここまで読んでくださり誠にありがとうございました。

それではまた次回。

 

☆ちなみに大学2年生の我が娘ですが、3ピースバンド「ハシリコミーズ」

のベーシスト!です。

昨年インディーズデビューをし、2021年3月3日にセカンドアルバムCD「チェ」が発売されます。

ファーストアルバムCD「無理しよう!」2020年8月5日発売中 RCSR0104

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YouTube https://www.youtube.com/channel/UC0_SkM11r4U9LVz6_VKzbMw

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