やっぱりスマホが邪魔

宮城・仙台
ライター
KIROKU vol.04
佐藤 綾香

 

最近、友人が念願叶ってとある海外アーティストのライブに行ったらしい。

聞けば、人生の目標の一つだったそう。

友人は興奮気味にライブがいかに素晴らしくかっこよかったのかをレポートしてくれたのだが「だけど、ひとつ不満があるのよ」と急に声のトーンを落とし、こう言った。

「スマホがかなり邪魔だった」。

 

この不満はわたしも常に感じている。

大勢の観客たちが腕を伸ばして掲げるスマホのせいで、それでなくても豆粒のように小さく見えるアーティストの姿が3分の2も隠れてしまい、もっと見えづらくなるのだ。

 

さらに、前列にいる観客たちのスマホで撮影されている画面上のアーティストが嫌でも目に入る。

たとえ豆粒サイズでしか見られなかったとしても、大好きなアーティストの気迫あるパフォーマンスを生身で見れるぞと何日も前からワクワクして来ているのに、結局目に入るのはいつもと変わらないような画面越しの憧れの君。

もしくは、意図せずもスマホが「隠れ身の術」として使われ、術が解ける一瞬の隙でたまに見えるアーティストの御姿。

 

決して安くはないチケット代を払った甲斐あって素晴らしいパフォーマンスに胸を打たれる一方、「常識だよね」と言わんばかりのスマホの大群にモヤモヤしてしまうこの落胆や悲しみ、みなさんにわかっていただけるだろうか。

 

美術展でも似たようなことが度々起こる。

昨今、作品を鑑賞していると撮影が第一目的になっている人が多い印象を受ける。

作品を撮っては次、間髪入れず撮っては次、が工場の生産ラインのようなルーティンで最初から最後まで繰り返され、表現がただ消費されている現実にとても悲しくなる。

この撮影者たちは、この美術展にわざわざお金を払って、計算してつくられたこの空間を経験して、作者が作品たちに懸ける想いをどう捉えて、なにを感じて、なにを未来に持ち帰るのだろう、とお節介だとは思いつつも、わたしは考えてしまうのだ。

 

ライブや美術展などでのスマホ撮影が当たり前になったのは、やはりSNSの存在が大きいのだろう。

その存在の大きさ故なのか、どうやらSNSは恋愛戦略にも欠かせないものになっているらしい。

 

ある日、いつも休憩で使う街中の喫煙所で、全く面識のない大学生らしき男の子3人組と居合わせた。

彼らはお互いのSNS恋愛戦略について共有していたのが、聞こえてきてしまったテクニックの数々にわたしは震撼した。

以下は「彼らの声」と(わたしの心の声)である。

 

「返信は相手の速度に合わせる。あっちが2〜3分で返したらこっちも2〜3分で返すし、1〜2時間遅れてきたらこっちも1〜2時間で返す」
(まじか。誰だとしても気づいたときに返すし、返せるときに返してるな…)

 

「相手のストーリーズは絶対に見る。逆に相手が自分のを見てくれなかったら脈ナシ」
(まじか。誰だとしてもストーリーズは基本的に見てない…  脈ナシのジャッジがけっこう厳しいのね)

 

「とりあえず相手は <親しい友達> に入れる。でも、自分が相手の <親しい友達> に入ってなかったら脈ナシ」
(まじか。<親しい友達> 使ったことない… 特定の誰かに見てほしい写真があったら直接その人宛に送っちゃうかも…)

 

 

このように、彼らとわたしは笑ってしまうほど全く噛み合わない。

SNSって、実は物事をややこしくしているのではないだろうか。

ほんとうは脈アリかもしれないのに、彼らの戦略上でわたしは脈ナシと認定されてしまう。

SNS上で脈ナシと勝手に判断されたわたしの気持ちは、一体どうやったら相手に気付いてもらえるのだろう。

「ちまちまとSNSでやりとり(駆け引き?)するなら、電話で直接話したほうがラクだし好きだな」と思うのだが、電話を連絡手段の基本にするのはそれはそれで大変だよな、と研究生だった頃を思い出す。

 

わたしは自分の好きなことを存分に研究するため、大学卒業後に1年間だけ、とある大学の研究生だった時期がある。

当時、わたしの論文を見てくれていた先生は、なんと携帯電話を一切持たない主義の人だった。

だから、連絡手段は必然的に固定電話だけ。選択肢は研究室か、先生の自宅か。

大抵はどちらかに電話がつながるのだが、一向につながらないときもある。

そんなときは、電話をかけるほうにストレスが溜まりやすい。

ただ「体調が悪いので今日は研究室に行けません」と伝えたいだけなのに、すれ違いの連続で直接伝えられないことに不安とイライラが募るのだ。

あの日々を考えたら、いくらSNSが物事をややこしくする犯人だとしても、スマホの存在が邪魔だとしても、連絡がつながりやすく、相手の状況がある程度想像できる手段になっているのはありがたいのかもしれない。

 

だがしかし。

新しい文明を扱う人間側は、恩恵を享受するのと同時に <失われるもの> への責任も意識する必要がある。

 

スマホを高く掲げてアーティストのライブを撮影し続けると、失われるもの。

作品一つ一つに立ち止まることなくスマホで撮影することだけに集中すると、失われるもの。

SNSの使い方だけで判断する恋愛をテクニック化すると、失われるもの。

スマホを持たないことを選ぶと、失われるもの。

スマホが邪魔だからと撮影を一切NGにしてしまうと、失われるもの。

 

<失われるもの> に気づいたとき、もしかしたら不要なすれ違いをなくせるのではないだろうか。

 

できるだけシンプルに生きていたい。

しかしそうもいかないのが人間の可笑しさでもあり、愛すべきところでもある。

そう考えると、スマホが邪魔なのは間違いないのだが、ライブでスマホの大群に負けじとアーティストの姿やパフォーマンスを目と心になにがなんでも焼き付けようとする自分も愛おしい。

 

って思うけど。

<失われるもの> も一通りは考えてみたけれど。

観客がスマホで撮影して得られる恩恵も考えてみたけれど。

やっぱり。

それでもやっぱり。

本音を言っていいのなら。

ライブでたくさん掲げられるスマホはとにかく邪魔。

 

プロフィール
ライター
佐藤 綾香
1992年生まれ、宮城県出身。ライター。夜型人間。いちばん好きな食べ物はピザです。

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