WEB・モバイル2018.12.19

もう場所や時間に縛られない。関西-東京のボーダーフリーがクリエイティブを軽やかにする

兵庫
プロモーションプランナー/トータルデザイナー 長谷川 弥生 さん
Profile
1976 年、兵庫県西宮市生まれ。地元の大学でマーケティングを学び、卒業後はデザインの夢を追いかけて25歳で東京へ。上京後はビジネスの立ち上げから企業に入り込んで、新商品を東京土産ランキング第2位に引き上げるなど数々の成功体験を持つ。2016年に関西へUターン。現在はデザイン事務所『こころよろこぶデザイン』代表として、東京のブレーンと連携しながら、関西企業のトータルプロモーションを請け負っている。
プロモーションプランナー・トータルデザイナーとして、さまざまな企業のブランディングを手掛ける長谷川弥生さん。グラフィックデザイン、Webデザイン、店舗ディスプレイ、ファッションスタイリングなど幅広いスキルをお持ちです。デザイン事務所『こころよろこぶデザイン』を立ち上げて、成功しながらもUターンを選んだ理由とは。東京に移住したきっかけや、東京でのエピソード、現在のお仕事についてお聞きしました。

幼い頃はクリエイティブな遊びが好きだった

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デザインを仕事にしたいと思ったのはいつ頃ですか?

幼い頃から「将来は自分にしかできない仕事をしたい」と思っていました。既存の遊びでは満足せず、段ボールでアスレチックを作ったり、テスト問題をゲームにしたり。友だちのご両親から「遊びの天才」と褒められるほど。しかし、教科書通りの解釈をしないため、美術の成績はふるいませんでした。
大学進学時には、美術系やファッション系と迷いつつも、将来性を優先。得意科目の数学を生かして、マーケティングが学べる商学部に進学しました。実家が商売を営んでいたのも理由の一つだったかもしれません。しかし、通い始めると美術熱が高まって「大学を辞めよう」と思うように。そんな時、阪神・淡路大震災に遭いました。被災によって家業は廃業。退学する選択肢もありましたが、母から背中を押してもらい大学を卒業しました。

デザインの仕事を始めたきっかけは?

大学卒業後は、関西にある子供服のオリジナルブランドショップに入りました。会社自体は関西と東京に5店舗を展開していましたが、職場は店長と私だけの小さな店でしたので、デザインに関する仕事はすべて私の担当に。店舗のディスプレイを考えたり、折込チラシを手描きで制作したり、イベントを企画したり。デザインソフトを学んでいる方が加わってからは、デザインソフトの使い方を教えていただき、洋服のデザインもお任せいただくようになりました。”マーケティング×デザイン”という現在のスタイルが生まれたのは、この時かもしれません。

東京に移住したきっかけをお聞かせください。

本格的にデザインを学びたいと思い、関西にある美大受験専門の予備校に通い始めました。デザイン会社の求人を探したのですが、当時は3年以上の経験を求めるものばかり。未経験者を受け入れる会社は少なく、「どうすればデザインの仕事ができるだろう」と自らフリーペーパーを制作して実績を作ったこともありました。 そこからは残業のないコールセンターに転職して、昼は仕事、夜は美大の受験勉強という毎日を送っていました。しかし、受験がさし迫ったある日、「もう十分描けているのだから、東京の現場で覚えてはどうか」と予備校の先生からアドバイスをいただいたのです。「東京なら求人数もケタ違い。一歩踏み出してみよう」と東京に飛び出しました。

刺激あふれる東京で24時間駆け抜ける

すでに就職先が決まっていたのですか?

何も決めずに上京しましたが、運よくすぐにブライダルの印刷物を企画・販売する会社に決まりました。まだ立ち上げたばかりの会社でしたので、ほぼゼロからのスタート。ブライダルの招待状や席次表の制作から、式場やお客様との関係構築まで幅広く携わらせていただきました。デザインを仕事にできるよろこびは大きく、深夜残業さえ楽しいと感じるほど。多くのことが学べる充実した環境で経験を積ませてもらいました。その後、キャリアアップを求めて和菓子製造メーカーの販売促進に転職しました。

東京土産で有名な会社ですね。

小さな会社でしたが、若いスタッフが集まり勢いがありました。入社初日には朝5時までデザインをして、2時間後には東京駅で店舗オープンのチラシを配布。社員数が少ないため、店舗のディスプレイから、冊子の企画デザイン、商品企画、新店舗の立ち上げなど、あらゆる業務を担当しました。努力の甲斐あって売上は好調に伸び続け、新商品は東京土産ランキングで第2位にランクイン。社員数も一気に増えました。しかし、商品企画のため夜中に大量のお菓子を食べていたのが引き金となり、逆流性食道炎を発症してしまったのです。喉から腸まで炎症を起こし、やむなく退社することになりました。

ここで一度、関西に戻ったのですね。

病気療養のため西宮に戻りました。人生で初めての挫折。「仕事のやり方は考えなければいけない。がむしゃらにやればよいというものではない」と痛感したのを覚えています。しかし、体が元気になると「このまま関西にいてもやることがない。まだ東京でやれる」と意欲的に。2週間後には東京で転職活動をスタートし、その月末には印刷会社で働いていました。

結婚そして独立。

再び東京へ。どんな仕事をされていましたか?

次の会社は、窓口や法人の印刷受注、広告代理業などを請け負っており、入社後すぐ新店舗の立ち上げに参加。その後、広告デザイン、窓口対応、入稿データのチェック、見積もりの作成など、幅広い業務を行いました。忙しくはありましたが、円滑なチームワークで売上はぐんぐんアップ。半年後には既存店を抜いて繁盛店になりました。プライベートでも職場のデザイナーとのお付き合いを始めて、公私ともに充実した毎日を送っていました。

そこを退職された理由とは?

結婚を機に退職しました。また、組織という「型」が苦手だったことも理由の一つです。のびのび自分らしく働きたいと考えて、フリーランスのデザイナーとして顧客開拓をスタート。まるごと自分で対応するフリーランスになってから、印刷会社で身につけた入稿データのチェック方法や見積もりの作り方がとても役に立ちました。しばらくして主人も退職。2人3脚で顧客開拓を続け、印刷会社退職から3年後の2009年にデザイン事務所『こころよろこぶデザイン』を立ち上げました。

印象に残っている仕事についてお聞かせください。

レディースファッションブランドのクリエイティブディレクターです。最初はパンフレット制作で携わったのですが、「すべてやってくれないか」と社長からお申し出をいただきました。デザイナー、イラストレーター、カメラマンなどの各ポジションのメンバーを招集して、一つのチームとして細部まで自分たちで作り上げていけるのはとても楽しかったですね。 一人で行う制作よりも規模の大きな制作ができたのはもちろん、チームで協力して継続的に結果を生み出していくことにとてもやりがいを感じました。「クライアントとチーム、皆で夢を共有してクリエイティブしていく楽しさ」をまさに体現することができた案件です。そこで生まれた制作物はどれも納得がいくものばかりでした。

人生の岐路に立ち、静かに未来を見つめた

成功されながらも、なぜ関西にUターンされたのですか?

一つは『こころよろこぶデザイン』を立ち上げた直後に主人が亡くなってしまったこと。一人では事務所を続けられないと屋号をおろし、個人名で働くようになりました。もう一つの理由は、高齢の母の様子が気がかりだったことです。父が他界し、それ以降、電話から伝わってくる母の様子に異変を感じるようになりました。大きなプロジェクトも落ち着いていましたし、ハワイのレストランとメールでやり取りしていた時に「海外とメールで仕事ができる時代なら、どこにいてもやっていけるのではないか」と思い、Uターンを決意しました。

関西での暮らしはいかがでしたか?

母と暮らすのは想像以上にエネルギーを使いました。お互いに一人暮らしが長かったので、ペースを合わせていくだけでひと苦労。ケンカが絶えず何度も別々に暮らしたいと思いました。また、母はあまり食事をとっていなかったようです。1年目は、掃除や食事作り、母の健康管理に専念しました。
働き始めたのは2年目から。母が少し元気になってきたので、仕事を再開しました。しかし、私の不在が続くと母の行動に異変が見られるようになって。家族のケアと、自分のキャリアを両立できる働き方を模索するようになりました。

そして『こころよろこぶデザイン』を再開することに?

母のケアをきっかけに「どこにいても仕事ができるスタイルを確立したい」と考えるようになりました。高齢者のケアは増える一方です。場所や時間を制限されずに働きながらも、結果を出せるスタイルに切り替えようと思いました。「自分一人ではできない」とたたんだ『こころよろこぶデザイン』ですが、さまざまな経験を通して成長した今の自分ならできるはずだと考えて、再開へと動き始めました。

現在はどんな仕事をされていますか?

「東京で一緒に仕事をしてきたチームでクリエイティブをしたい!」という願いをフェローズさんの仕事で叶えることができました。関西-東京の遠隔チームを結成。東京にいるメンバーとともに関西の案件を動かせたのは画期的ですし、作業中に距離を感じたことは一度もありません。この実績ができたおかげで、新しい仕事も受注できました。これまではパンフレットなど単体の仕事を中心に受けていましたが、東京のチームと動ける今は長いスパンで総合的にプロモーションさせていただく仕事の仕方へとシフトしています。

オリジナリティを受け入れる関西でのびやかに力を発揮

長谷川さんにとって「デザイン」はどんなものですか?

ひと言で表すと「夢」です。クライアントやクリエイティブチームのメンバーと「夢」を共有できた瞬間が、創造のスタートライン。そこから新しいイメージが生まれていきます。デザインという仕事を通して、一つずつ夢を実現してきました。関わる人とよろこび合えるデザインをすること、それがまさに“こころよろこぶデザイン”だと思います。

お仕事で大切にしていることは何ですか?

純粋性です。面倒くさいと思われるかもしれませんが、クライアントの想いを理解できるまで私は何度でも質問しますし、わからなければ動きません。わかったふりはしませんし、「このプランは成果が上がる」と確信できるまで突き詰めて、“純粋性を高める”ところはとても大切にしています。

今後の目標について教えてください。

将来的には海外でも仕事をしたいと考えています。環境によってデザイン性も変わると思いますので、さまざまな拠点に移り住みながら仕事をしたいですね。私が海外を意識するようになったのは、父を亡くしたのがきっかけ。父はとてもスケールの大きい人でしたので、「お前はもっと大きく動いてもいいんじゃないのか」と言われているような気がして。世界をまたにかけて仕事ができる人になりたいです。

関西に戻ってきてよかったと感じるところは?

率直な話ができるのは、関西ならではの魅力だと思います。私はストレートな性格で、つい直球で話をしてしまうのですが、関西では気持ちよく受け取っていただき、いきいきしたコミュニケーションができています。どんなクライアントに対しても率直に話をしていくと、展開が早く、よけいな心配をする必要もありません。今は好きな仕事を好きな人たちとできているので、仕事や人間関係でストレスを感じなくなりました。

U ターン、I ターンを考えている⽅にメッセージをお願いいたします。

関西には自分のスタイルを作っていける風土があると感じています。オリジナルの提案を「面白い」と受け入れてくださったり、独自のスタイルを好意的に受け止めてくださったり。東京には仕事が多く、刺激的で楽しい毎日でした。だから、Uターン後は、東京が恋しく、流れる時間の速度にも違和感を覚えたくらいです。しかし、慣れてくると、陰でも陽でもなく自然体でいられる関西はとても暮らしやすく、仕事でも素直に力を発揮できていると感じます。「そろそろ自分らしい働き方を見つけたい」という方は、Iターン、Uターンを選択肢に入れてみてはいかがでしょうか。

取材日:2018年10月29日 ライター:葉月 蓮

長谷川弥生(はせがわ やよい)

1976 年、兵庫県西宮市出身。デザイン事務所『こころよろこぶデザイン』代表。幼い頃から「自分にしかできないことを仕事にしたい」と夢を抱いて、25歳で東京に移住。現在は西宮市で、東京でのコネクションを生かしながらチームで案件を動かす独自のスタイルで新たな道を切り拓いている。

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