映像2021.01.06

本木克英監督が故郷・富山への思いを胸に完成させた『大コメ騒動』! 女性群像による痛快エンターテインメントの魅力!

Vol.022
映画『大コメ騒動』監督
Katsuhide Motoki
本木 克英

100年以上も前の大正時代に、富山県の小さな漁村で家族の命を守るために声を上げ、立ち上がった女性たちがいました。彼女たちの力強い奮闘ぶりを、ときにシリアスに、ときにユーモアたっぷりに描いた映画『大コメ騒動』(だいこめそうどう)。

この作品は、『釣りバカ日誌』シリーズや『超高速!参勤交代』などで知られる本木克英(もとき かつひで)監督が、故郷・富山県との深いかかわりの中で完成させた痛快エンターテインメントです。

貧しさのなかで懸命に生きる漁師の妻・松浦いと(井上真央)を中心に、女性たちが起こした市民運動の顛末(てんまつ)を、史実に忠実に描き出しました。作品の誕生秘話や見どころ、また映画作りに対する思いなどについて、本木監督にお話を伺いました。

故郷・富山の歴史的事件を形にしたいと思い続けて20年! 撮影は…16日間!

 

今回の映画は富山県ご出身の監督が地元で起こった事件をもとに作られたわけですが、まずは映画化のきっかけについてお話しいただけますか?

そもそも私が監督デビュー作の『てなもんや商社』(1998年)を撮ったときに、同じく富山県に実家のあった、岩波ホール総支配人(当時)の高野悦子さんが応援してくださいまして、「米騒動を映画化しなさいよ、きっと面白くなるから」と言われたんです。米騒動自体は、富山県の事件で唯一教科書に載っていることなので身近ではあったんですが、明暗両面を持った複雑な事件でして。

貧しい女性たちがお上に盾突いたということで誇らしさを持っている人がいる反面、富山県の恥だと思ってる人もいましてね。だから、映画化には結構抵抗もあるなと思っていたし、案の定難航もしましたが、私自身、映画の題材というのは、立派な面やよい面だけでは面白いものにならないと常日頃思っているので。

当時事件に参加した、いわゆる“おかか”(女房)たちの証言を調べた書物や研究書はたくさんあったんですよ。「やむにやまれず米俵にしがみついた」とか、(富山の)方言満載で書かれているので「何とかこういうものを形にできないかなぁ」と思い続けてはいました。

その後、地元で『釣りバカ日誌13』という映画を撮る機会があって、大変盛り上がったんです。全国の興行収入の2割を富山県であげるという、特殊なヒットをしたんですよ。それ以来、富山のロケーションオフィスとかフィルムコミッションの活動が盛んになって、映画もたくさん撮られるようになりました。

私自身も富山県に呼ばれると、「また富山を舞台に映画を撮ってくれ」と言われ続けて、それが大きな力になりましたね。また、ある女性会議で、富山県出身の室井滋さんに会ったときにも「米騒動、絶対面白いからやったら」と言われまして。それで取りかかったんですが、大手の配給会社で賛同してくれるところもなく、苦労していました。その時に、やはり富山出身の立川志の輔さんが「米騒動やってくださいよ」と言ってくださって。

そうして紆余曲折あって、約3年前、富山市や地元のテレビ局が米騒動の映画化に興味を持ってくれて、そこで映画化できそうだという状況になりました。撮影が2019年の10月末から、短いんですが16日間で撮りました

16日間!もちろん、それまでにはしっかりとしたご準備の期間があったと思いますが、短いですね。

しっかり準備ができたのと協力体制ができたのと。あとは、製作が京都のいつも時代劇を作っているスタッフで気心が知れていたというのもあるし、まさに、超高速で撮り終えました。

それで構想20年撮影16日って、よく言われるんですけど(笑)。映画はやはり、何百人もの人が関わって達成できるものですから、そのタイミングがうまくいったことで、こうやって発表できるようになったと考えています。

時代劇は真実を曲げずに作って、描き方や料理の仕方を工夫する

今回はお話の舞台が大正時代ですが、当時の時代背景など見どころはありますか?

「真実は曲げずに作る」というのを、僕はいつも時代劇を作る上で大事にしてるんです。それで描き方や料理の仕方を工夫する。史実の捏造はせずに、いかに面白く、幅広い層に伝えられるかをいつも考えてますね。助監督たちも大正時代は初めての人が多かったので、かなり膨大な資料を調べて、それを基に映画用の人物像を作り上げていって、ストーリーに組み込んだんです。

例えば志の輔さんが演じた富山日報の記者は、実はモデルとなった新聞記者がいました。当時は新聞の勃興期で、一般家庭に新聞が普及し始めた時代に、都会から来て富山県の新聞の基礎を作った、その方をイメージして、志の輔師匠に託しました。

新聞というメディアができ始めた頃のお話でもあるんですね。

ですから、研究者が本当に多くて、ようやく映画を具体化できるようになった3~4年前に学説がまとまって分かったんですが、女性たちの嘆願運動は明治時代から続いていたんです。それが新聞の黎明期に、新聞の機能によってあっという間に全国に広まった。同じような格差や社会の矛盾に苦しんでいる庶民たちがたくさんいたんですね

結果、富山よりも、各地の騒動がもっと激しくなってしまった。関西では焼き討ちがあったり、暴動が起きた場所もあったと。その発端が富山のおかかたちだと言われることへの後ろめたさもあったんです。

大正時代と令和時代。100年経って歴史がリンクした?

実際に映画の中でも全国にどんどん飛び火していって、という部分が描かれていました。

それが娯楽映画の形で伝えられると、イメージをある程度覆すこともできるし。まぁ、僕は覆したかったわけじゃないんですけども、女性たちが声を上げたことが新聞によって日本中に広がって、社会運動にまで発展していったというのは初めての例でしたので、これを何とか面白く伝えられないかなと思いまして。映画を見る人に「お勉強しましょう」じゃなくてね。

でも当時の格差社会とか、フェイクニュースのように暴動という形で取り上げられていくとか、今の時代にリンクするところは大きいですよね。

日本の一般市民は、権力に従順で声を上げないなんて言われてたんですよ。でも、そんなことはないと。100年前に、女性たちが声を上げていたんだよっていうことを示そうと思っていたら、新型コロナ禍になってしまい、さらに人々の格差も広がって、先行きが見えなくなってしまって。

それで、この米騒動の年に、スペイン風邪が全国的に広がったという所まで重なってしまった。実はスペイン風邪が米騒動を収束させたとも言われてまして、それほど大きな事件だったみたいですね。

女性の強さを伝えたかったし、撮影するうちに勉強にもなった

今回はおかかたちが主人公で、女性の強さがすごく伝わってくるんですが、男性は影が薄いのでは?

確かに、言われてみれば男性に立派な人はあまりいないかもしれない(笑)。映画を作るうえで大切にしようと思ったのは、絶対権力者側の視点にはならないようにすることです。あくまでも、そこに生きたおかかたちを想像して。

結構、魅力的な人たちが多かったと思うんですよ。女優さんたちも、本当に皆さん楽しそうに演じられてましてね。「またやりたい」なんて言ってくださる。

どうしても、メイクできれいにすることが多かったんですが、今回は女優さんや女性スタッフの力強い後押しもあって、おかかたちは全体に日焼けしてます。昔の写真を見てると、皆女性たち真っ黒じゃないかと。室井さんなんかは「本当にどこに出たのか」っていうくらい、仕上がりのインパクトが強いですよ(笑)。

それらを含めて、この映画の見どころの一つは女優さんたちの頑張りにあるのかなと思ったのですが、監督ご自身で「ここは見てほしい」というポイントは?

最近では珍しい、「女性の群像劇」であるということですかね。女性の魂が飛び交う群像活劇というか、そういう見方をまずはしてほしい。作品の行間に、伝えたいことを感じてもらえればうれしいですね。実際にいとさんのような女性って、いたんじゃないかと思うんですよ。

女性のコミュニティの中で、耐えて我慢して言い訳もせず、しかしその土地を離れないでいるっていう。女性たちの井戸端の関係は、今のママ友の関係にも似ていて、表面上は仲良くしていても、一方で生きるために多少は裏切りもあったり。

だけど、やっぱり大きな危機が来ると全てさらけ出したうえで結束するのも女性だなって、本当にこの映画を通じて勉強になりました

ここは苦労した、というようなシーンはありますか?

苦労したのは、やはり砂浜でのコメの積み出し阻止のシーン。連日100人以上のエキストラを集めて、どう組み立てていくかが大変だった。でも、連日夜明け前から集まってくださって。

扮装(ふんそう)して日焼けメイクをして、嫌な顔一つせず、というかむしろ楽しそうに発散するんですよ。だから、エキストラの皆さんに言ったのは「楽しそうな顔はしないでほしい」と。やっぱり命がけのシーンだからと言ったんだけど、どうしても動きながら充実感が隠せなかったんですけれど

結果、撮影が終わったら、プロの俳優さんたちも驚いて拍手をするくらい、積極的に動いてくれてました。それは本当に苦労した点でもあるし、良かった点でもありました。

就活で松竹に入社したのがキャリアの始まり

監督ご自身のお話を伺っても宜しいでしょうか。まず、映画監督を目指されたきっかけについて。

振り返ると、たまたま就活で松竹に助監督として入社したことなのかなと思いますね。そこで、今はもうなくなってしまったんですが、映画黄金期の「撮影所システム」という、撮影所でいろんな商業映画の作り方を現場で学んでいって、社員として映画の始まりから仕上がりまで見ることができた。それが短期間でできたというのが、やはり大きかったと思います。

助監督として、松竹で森﨑東監督、木下惠介監督、勅使河原宏監督など錚々(そうそう)たる大監督に師事なさっていますが?

それも運が良かったとしか言いようがないです。でも、松竹の大船撮影所に入ってきた助監督としては、大事にしてもらえたっていうのはありますね。次はこんな映画を作ろうという企画、ストーリーを一緒に書いてみたり、シナリオ作りをしてみたり、勉強させてもらいました。そばにいて、見ることができたのも大きかったです。

今、大活躍している監督さんたちは皆さんやっぱり映画愛が強くて、自主映画を作り続けて、それからいろんな賞を獲って世に出てきた方が多い。僕はその手法では、決して映画監督にはなっていなかったと思います。僕は入社して巡り会った人たちのおかげで、監督を続けられた。

だから、継続は大事だと思います。良かったのは、内心つまんない企画だな、脚本だなとか思っていても、それをまともに人さまに見せられるものにしていくにはどうしたらいいか、そういうところも学べたことです。

最初からアーティスト目線ではなかったということですか?

全くアーティストではなかったです。だから商業作品・商業映画として「人さまから木戸銭をもらって見ていただくもの」という意識がすごく強くて。だからキャスティングも大事ですし、話の作り方や編集のテンポとか、間が持たない画は撮らないとか、後は時間がない中でどうやってコンテを構成していくか、そういうことを教わることができた。

もちろん、アーティスティックな映画とか芸術性の高い映画には憧れますし「すごいなあ」と思うんですけど、そうじゃない映画も世の中にはたくさんありましてね。傑作の陰にたくさんのヒット作が隠れているのが日本映画の状況です。

入社当時は、『男がつらいよ』がまだ松竹映画の柱で、その併映作品というのがあったんですよ。その併映作品を撮りあげていく職人的な監督たちがいて、僕が助監督として付くことができた。理不尽なこともたくさん起こるんですけど、それでも仕上がりはスクリーンで、入場料を取って見せることになる。どうしても商業作品・商業映画という考えが染みついているので、そういった考え方、作り方をしてしまうのかもしれないですね。

師事された大監督たちに言われた言葉とか、姿を見て感じたことなど、何か印象に残っていることはありますか?

勅使河原監督と木下監督がおっしゃっていたのは、コメディが一番難しい。うまくできたとしても、評価はされない。でも、人を笑わせることができたら、他のジャンルはすべてできるよ、と言ってました。

森﨑東監督からは、とにかく与えられた注文仕事であっても、これは自分の作品だというシーンを1つ以上達成できたら、それはお前の作品だと。

あと「釣りバカ日誌」は11(イレブン)から3本引き継いだんですけど、やはり主演が西田敏行さんと三國連太郎さんという日本を代表する俳優さんたちで、その方達とのコミュニケーションは今も大変勉強になっています。シナリオを書かれたのは巨匠の山田洋次監督で、それをシナリオ通り言わない大物2人(笑)。間に入って、右往左往しながら調整して

最後に、映画監督やディレクターなどを目指している方や後輩クリエイターたちへ、メッセージをいただけますか?

1作、「これは自分らしい作品だ」っていうのを作ることはできるんですけど、僕がいちばん大事だなと思うのは、それを継続していくことです。

やはりプロフェッショナルとしてやっていくには、いかに継続して作り続けられるか。自分で作りたいことが達成できた作品もあるけれども、プロデューサーから提案された企画とか、「これをどうやっていいものにしていこうか」という仕事の方が多いので、現場の仕事を考えると、腰が引けてしまうこともある。

でも、また面白い作品ができるかもしれないっていう、SDGs(持続可能な開発目標)ですね。持続可能なやり方というか、意識をもって、続けていってほしいなと思います。

そのSDGsを達成するために、監督がエネルギーというか、創作の源にしていることは何ですか?

『大コメ騒動』もそうなんですけど、映画って3年くらいかけて作るわけで、ものすごい時間がかかるんです。でも、公開されたら、なるべくそのことは忘れて、1回ゼロにする。

ヒットしたとか賞をもらったとか、そういうのも忘れて、もう一度「自分が見たい映画は何だろう」と考える。あまり難しく考えないで、「自分が見たい映画はこうだな」と思いながら、それをいろんな人に伝えて巻き込んでいく

僕は、自分が作家だという意識があまりないので、いろんな人の力を借りてやっていこうというくらいの意識で行くと、何か運が降ってくるような気がしますね

取材日:2020年11月20日 ライター:儀田 尚子 ムービー撮影・編集:村上 光廣

『大コメ騒動』

©︎2021「大コメ騒動」製作委員会

2021年1月8日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開

出演:井上真央、室井 滋、夏木マリ、立川志の輔、左 時枝、柴田理恵、鈴木砂羽、西村まさ彦、内浦純一、石橋蓮司
監督:本木克英 プロデューサー:岩城レイ子  脚本:谷本佳織 主題歌:「愛を米て」米米CLUB(Sony Music Records)
配給:ラビットハウス、エレファントハウス
©︎2021「大コメ騒動」製作委員会

 

ストーリー

大正7年。富山の貧しい漁師町で暮らす松浦いとは漁に出た夫の留守を預かり、浜のおかか(女房)たちとともに米俵を担いで船に積む重労働の日当で、家族が食べる米を買って暮らしていた。ところが、次第にコメの値段が上がり出し、日当でコメを買えないとなれば、家族の命も守れない。ついにおかかたちはコメの積み出し阻止を試みるが、失敗。しかし状況は日に日に悪化、ある事故をきっかけに、ついに我慢の限界がきたおかかたちは、ある行動にでるー。

プロフィール
映画『大コメ騒動』監督
本木 克英
1963年12月6日生まれ、富山県出身。早稲田大学政治経済学部卒業後、松竹に助監督入社。森﨑東、木下惠介、勅使河原宏などの監督に師事。米国留学、プロデューサーを経て、1998年『てなもんや商社』で監督デビュー。第18回藤本賞新人賞を受賞。『超高速!参勤交代』(2014年)でブルーリボン賞作品賞、日本アカデミー賞優秀監督賞など受賞。『空飛ぶタイヤ』(18年)で第42回日本アカデミー賞優秀監督賞受賞。主な作品は、『釣りバカ日誌』シリーズ11~13(00~02年)、『ゲゲゲの鬼太郎』(07年)、『犬と私の10の約束』(08年)、『鴨川ホルモー』(09年)、『おかえり、はやぶさ』(12年)、『すべては君に逢えたから』(13年)、『映画 少年たち』『居眠り磐音』(19年)など。

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP