ゴールデンカムイの謎 黄金の国・ジパングとは北海道だった? その2

北海道
フリーライター
youichi tsunoda
角田陽一

ついに日本に到達した西洋の探検家たち
だが日本は「黄金の国・ジパング」ではなかった

大航海時代
マルコ・ポーロの「東方見聞録」を座右の書として「黄金の国・ジパング」を求めた西洋の船乗りたちは、
1543年に至ってついに日本へと到達した。

当時の日本は、ヨーロッパ各国に比べはるかに金や銀の資源に優れていたことは疑いない。
折しも戦国時代のこと。「腹が減っては戦ができぬ」というが、同様に金が無くても戦はできない。
戦国大名らは軍資金の調達に心を砕き、領国において盛んに鉱山開発に励んでいた。

武田信玄が領国の甲州や信州各地に開発した「信玄の隠し金山」は有名だが、
同時期の西日本、石見国では銀鉱山が開発されていた。
世界遺産にも登録された「石見銀山」である。

この鉱山では当時の先進技術「灰吹き法」をいち早く取りこみ、精錬して生産量を上げていたという。
「灰吹き法」とは、「鉛は他の金属と結びつきやすい」性質を生かした貴金属の精錬法である。

まず金や銀など貴金属を含んだ鉱石を、高熱で融かした鉛に投入する。
すると鉛は鉱石内の金銀を吸い取り、結果として「貴金属と鉛の合金」が生まれる。
この合金を「骨灰製の器」に載せて加熱すれば、鉛は骨灰に吸い取られ、皿の上には金銀が残るという仕組みだ。
江戸時代初期の日本は、銀の輸出国としても著名だったのである。

 

だが、それらの技術を駆使して採鉱に励んだとしても、
東方見聞録の記述通り「国中に金銀が満ち溢れている」状態とは程遠い日本。
やがて西洋の船乗りや地理学者の間に

「日本はジパングではない。
ジパングはどこか別の場所ではないか?」

 

との憶測が生まれた。
それは「北太平洋のどこかに『金銀島』がある!」との連想へと発展し
西洋の地理学者はさらに探索に乗り出すことになった。

 

北太平洋のどこかに「金銀島」がある!
探索に乗り出す探検家たち

 

西洋人が日本に初めて到達してから70年後の江戸時代
西洋各地の国々が北太平洋、とりわけ日本近海へ探検隊を派遣した。
目的は新航路の開発、そして「金銀島」の発見である

1611年にはスペインのセバスティアン・ビスカイノが本州の三陸海岸を航行して伊達政宗に謁見し、
1643年にはオランダのマルチン・ゲルリッツエン・フリース一行が北海道の太平洋沿岸の各地に上陸、
1787年にフランスのラ・ペルーズ伯が樺太のクシュンナイに上陸している。

 

このうち、当時の北海道に関して最も詳細な記録を残しているのは、オランダのフリース一行である。
彼は1643年、オランダ東インド会社の提督の命を受けて、2月に3隻の船団でジャワを出港、
途中、八丈島付近で嵐に襲われ僚船を見失うが、6月上旬に北海道太平洋沿岸・トカチの沖合に到達、
6月13日に現在の根室市・納沙布岬に到達、択捉島の東岸からオホーツク海に入り、
7月中旬に樺太の大泊に上陸して土地の樺太アイヌと交流する。

その後、7月19日に出帆して一旦北上して樺太中部に達したのち、
北海道オホーツク海沿岸から太平洋に出て現在の厚岸町に上陸、
9月の上旬から中旬まで滞在して詳細な記録を残したうえでジャワに帰還した。
フリースが書き残した記録、特に樺太アイヌに関する記述は、
和人による経済支配以前におけるアイヌの伝統的な生活を表したものとして貴重である。

樺太アイヌの社会では日本産の漆器、椀や盆が生活用具として使われ、貴人は刺繍をほどこした木綿の着物を着ること、
また、樺太では貴人を葬る際、彫刻を施した立派な木棺遺体を納め、埋めることなく地上の柱の上に掲げる。
犬を家畜として巧みに操り、犬を川に放して昇る鮭を捕えさせ、沿岸を進む小舟は岸の犬に曳かせて操るという。

また北海道のアッケシでは、遺体を葬るにあたり棺桶を4本の杭の上に据え、
その上に小屋掛けしたうえ、その小屋も彫刻で飾る風習を見聞している。
近代に記録された北海道アイヌの伝統的な葬儀では、遺体はゴザで包んだ上で地中に埋め、クワ(墓標)を立てるものとされている。
江戸時代初期は、北海道でも貴人に限っては棺桶に納めて「風葬」にする風習があったのだろうか。

酒を飲む際は炉の火の神に酒のしずくを捧げた上で口に運ぶことなど、現代に通じるアイヌ文化も見聞している。

 

蝦夷地に渡ったオランダ人探検家
彼は黄金に出会えたか?

さて、フリースの北海道探検。肝心の「金銀島」の探検はどうだったのだろうか。

納沙布岬で出会った7人ほどのアイヌは大半の者が大きな銀の耳輪を着けていた。
次に向かった国後島のアイヌの長は、金銀で飾り立てた太刀を帯びていた。
その金の出どこを尋ねたところ、付添いの老女が砂の中に手を入れ、
それを炉に入れて融かすような手ぶりをして「カニ」という言葉を発する。
カニは日本語の「かね」に由来する言葉で、鉄や金をはじめ金属全般を指すアイヌ語である。
青森県で発見された11世紀ごろの遺跡からは金の精錬に使われたと思しき土器が発見されているので、
同じ技術がアイヌに伝わっていたとしてもおかしくはない。

ただし、フリース一行は金に出会えなかった
国後島から択捉島へ、次に向かった樺太では住人に歓待されたが金の情報はなく、
北海道本島の厚岸では砂金の出る場所を教えられたが収穫はなく、
別の場所にあるという金鉱の情報も、地元住人との不仲を理由に案内を断られたという。

北海道本島を出帆してからさらに2か月、折からの濃霧をついて「金銀島」を探し求めたものの、
結局のところむなしくジャワへと帰還せざるを得なかった。

 

だが同時期の北海道南西部では、大々的に金が採掘されていた。
それは北海道史、アイヌ史を揺るがす大事件へと発展することになる。

 

(この項、続く)

 

※参考文献

・『アイヌ民族誌』アイヌ文化保存対策協議会 第一法規出版1970年

・『アイヌ学入門』瀬川拓郎 講談社現代新書 2015年

・『ジパング伝説―コロンブスを誘った黄金の島』宮崎正勝 中公新書 2000年

プロフィール
フリーライター
角田陽一
1974年、北海道生まれ。2004年よりフリーライター。食文化やアウトドア、故郷・北海道の歴史や文化をモチーフに執筆中。 著書に『図解アイヌ』新紀元社 2018年、執筆協力に『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』宝島社新書 2019年など。

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